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『西安事件』続き




須磨日記『とき』とき編纂会出版1964年9月15日初刊より以下抜粋
(行間、太字、大文字は引用者による)


 西安事件

ぼくの在支十有一年の末期時代の昭和11年、つまり1936年は民国26年だが、中国でも事の多い年であった。

(中略)

 西安に召集されていた国防会議に出席中の蒋介石が、突如、張学良と楊虎城に監禁された。
 この情報が伝わると、英、米、独の公使や同僚が、こうした時によくあるように、何か特種がと、まずぼくのもとにやって来た。
 この時ばかりは、ぼくは本当にぼくの狙っているところをそのまま伝えることを躇わなかった。

(中略) 

 それはその西安事件として歴史的出来事になった蒋介石監禁事件の12日の前日である11日の午後である。 

 『大地』の名作で当時特に中国でも人口に膾炙していたパール・バック夫人から突然電話があって、翌12日には急に上海にたつのだが、ぼくの収蔵になる美術品をもう一度ちょっと見せてはくれないか、特に唐有壬から遺言づきで贈られたという名品の『石濤の黄山画冊』だけでも見たいといって来た。収蔵家はこんな申し込みはよくよくの事がなければ断れるものではない。日中交渉の段取りなどについて恐ろしい忙しさではあったが承諾すると、ちょうど後からドナルドさんも参加するが出来たらスキ焼きを頂きたいそうです、という。

 これはまたいい鴨みたいなものだと思った。ドナルドはもともとオーストラリア人で、かつて僕の北京在勤中張作霖の顧問だったが、その時は張学良の懐刀だから実は北京時代からの旧知でもあり、パール・バックとのあい客にはもって来いと思い、早速注文どおり、インスタントだがすき焼きパーテイ―にした。(中略)

 2時間余り談義を重ね、それからすき焼きを3人で小1時間は楽しんで、パール・バック女史が、何でも上海行きの急行に間に合わせるというのであわてふためいて、南京のぼくの官邸で、後には大使館邸になった鼓楼の通称『須磨旅館』の2階から下に降りるときである。

 女史は急いでいるので階段を裂きにたってアタフタと降りかけるときにぼくをドナルドがソッとひきとめてどえらいことを耳打ちするではないか。初めはぼくがぼくの耳を疑った。ただドナルドは北京の張作霖顧問時代から旧友であるから、気安くしかし低声という、他には聞こえないソト・ヴォーゼ(低せりふ)でこういった。




「須磨さん、今夜中に西安でどえらいことが起きるよ。しかし、それはフィアスコなんだから驚きなさんな」



「何事なんだ?」


「蒋介石が監禁されるんだよ」


 ぼくはさすがに驚いた。


「しかし、それは、須磨さん、芝居なんだよ」


 その言葉が終わらないうちに、女史は階下の車の中からドナルドを呼んでいた。


 どえらいことをタイムリーに聴いたものである。


(以上抜粋)











須磨千秋編『須磨弥吉郎外交秘録』創元社1988年11月20日初版


七、西安事件のスクープ


 スクープ話で想い起すことの一つは、昭和十一年十二月十二日蒋介石が張学良に監禁された有名な西安事件を偶然にも事前に探知した時の経験で未だに忘れられない。というのは、事件突発の一日前のことである。ノーベル賞受賞の『大地』作者で、かねて見知りあいのパール・バック女史から、私のコレクションをのぞかしてくれないかと電話があり、学良の顧問であった豪州人のドナルド君も同行したいというのだ。ついでにスキ焼きも食べたいといわれたので、旧知の二人ゆえ歓迎すると答えた。


 午後いっぱい遊んでバカ話をした揚句、パール・バック女史が帰るといい出し、ドナルド君も続いて私の書斎を出た。この時、玄関まで見送ろうとして私が階段を下りる際に、ドナルド君が私をかかえるようにしながら
「総領事、明日どえらいこと(フィアスコ)が起るが、何でもないんだよ」という。


 私も彼の肩をおさえ、階段の途中で、問い返すと、
「蒋介石が明日学良に抑留の目にあうんだよ、
しかし、それは実は何でもないのだ」
というではないか。


 その翌日世界の新聞、ラジオは大騒ぎ。しかし、この騒ぎをよそに霞ヶ関の本省だけは前日の私の打電できわめて平静だったのである。


 私が逸早く打ったアーゼント内容は
「えらいことがあるけれど、芝居だよ」であった。


 簡単だが堅物の私としてはかつてない名電を打ったものであった。


 三十余年間世界の外交場裡に奔命中、こんなことは滅多にない快心事だったのである。




須磨屋吉郎はTO機関の実質トップである




(以上抜粋)





須磨弥吉郎が1927年北京公使館に赴任して以来の旧知の仲であったドナルドは、
須磨弥吉郎を通じて霞ヶ関本省に予めヤラセの手の内を明かしておいた訳です。


つまり霞ヶ関本省は下條君が打電する前から『西安事件』が起こることを知っていた。


『事件』が起きた当日の夜9時ごろから、
外国プレスが本国に打電することが禁じられていたにもかかわらず、
なぜ下條君だけが十時ちょっと前に打電できたのか。

実のところ下條君が打電しようがしまいがそれは全然かまわなかった。
なぜなら本省が須磨屋吉郎から『西安事件』の手の内を事前に知らされていたのであれば、
打電の有無に拘わらずシゲちゃんの『大スクープ』をデッチ上げることが出来たから。


おまけにシゲちゃんは須磨弥吉郎とは二重三重の人脈で繋がっていた。
ロイターの極東支配人チャンセラー、ジャーデイン・マセソン商会のケジャック兄弟、
ロックフェラーⅢなどの大物のトモダチの他にもシゲちゃんの血縁である松方幸次郎がいた。


シゲちゃんは松方正義の四女を母に持ち、松方幸次郎の娘を娶っている。
松方幸次郎は松方正義の三男で、エール大学とソルボンヌ大学に留学し、
須磨屋吉郎とは美術品の蒐集仲間として親しく交わっている。



参照 『印象派』の作品が多い松方コレクション


『印象派』は世界支配層が投機の対象としてブランドに仕立てたもので、
ジロちゃんの『父親』白洲文平も印象派の作品をかなり所蔵している)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%96%B9%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3





参照 松方幸次郎とシゲちゃんが所属する『海東会』


海東会
海東は松方正義の雅号。松方家の子々孫々により形成されている会。松方正義の遺徳を称えながら親睦をはかる事を目的としている。年二回都内のホテルで定期的に会合を開いている。海東会の会員数は約五百名に達し、自前で家族名簿管理システム「海東」というプログラムまで開発し、一人ひとりにコード番号がつけられている。
(松本重治『<聞き書き>わが心の自叙伝』聞き手・加固寛子 講談社1992年2月29日初版)






ぶっちゃけ『西安事件』の『大スクープ』とは、
ドナルドから須磨弥吉郎に伝えられた特ダネを使って、
シゲちゃんに花を持たせる形で行われたデキレースであり、
初動から一貫して大げさに立ち回って見せたのは、
茶番を盛り立てる確信犯としてのパフォーマンスだったわけです。



 




定義 『西安事件』の『大スクープ』
『国共合作』⇒『抗日統一戦線』⇒『盧溝橋事件』⇒『日中全面戦争』
この流れに従って国民政府、中国共産党、大日本帝国、列強の外国プレスが、
一致協力してプロパガンダを喧伝した証しである。



シゲちゃんは次のように『証言』することによってこのシナリオを補完しています。



張学良は”馬賊の子は馬賊”というわけで、馬賊の魂を持つなかなか腹のすわった人物ですよ。父の張作霖が関東軍の手で爆死を遂げたときは二八歳、青年元帥として東三省保安司令官に就任しますが、父を殺した日本への復讐を決意、青天白日旗のもとに蔣介石とともに抗日戦争を展開したいと思っていたのです。

しかし蒋介石はもっぱら共産党に対する白色テロと追撃に力を注ぎ続けていた。

張学良は、敗残の兵だと思っていた紅軍の手強さに驚き、これ以上、蒋介石に命じられるままに剿匪事業の最前線に東北軍をさらせば、東北軍は壊滅する、とすっかり弱気になってしまいました。蒋介石に安内攘外策を一八〇度転換させ、紅軍と戦うのをやめるほかない、という考えに傾きますす。そこで、張学良は延安のカトリック教会で周恩来と会見することになります。

そうしてこの会見で「連蔣抗日」という新しい路線を進むことで意見一致した。それが一九三六年四月九日ですよ。張学良が周恩来に会見した日時については六月初めごろではないか、と私は思っていたのですが、一九七九年、北京に行ったとき、歴史博物館で周恩来の生涯の業績をたどる特別展示会が開かれていたので、その略歴を見ていくと、張学良との会見のことが出ていて、四月九日だとはっきりわかったのです。

あえて蒋介石を捕えた張学良は、楊虎城の支配下に置いては蒋介石の生命があぶないと、自分の親衛隊である高培五師団の邸宅に蒋介石の身を移して、何度も諫言するのです。張学良は八項目の要求を蒋介石に持ち出します。八項目の中で一番大事なのは、「内戦を停止して、一致抗日せよ」です。

これに対して蒋介石は、監禁された身でありながら、張学良に「君は私の部下なのか、敵なのか。敵ならただちに私を殺せ。私を叛徒や敵の強迫に屈する男だと思うのか」と厳然たる態度をとり、張学良の要求をがんとして聞き入れない。そのうちに、かつて六年間、張学良の顧問をしていたオーストラリラ人のウイリアム・ドナルド、つぎに蒋介石夫人・宋美齢の兄の宋子文、最後には宋美齢まで西安にやってくる。蒋介石の顔を立てた妥協策をさぐるわけです。

周恩来も張学良に招かれて延安から西安にやってきます。張学良はまず、宋美齢に名前をいわないで周恩来を紹介します。宋美齢は周恩来に会ってみて、こんな話のわかる共産党員がいたのか、と彼に好意を持ち、自分の旦那に引き合わせる。蒋介石と周恩来は短時間会うのですが、蒋介石は周恩来に「また一緒に仕事をやりましょう」といっただけだったようです。このあと、周恩来は蒋介石の南京帰還に強硬に反対する楊虎城を見事に説得し、張学良の期待にこたえて最後の段階で事態収拾に活躍したわけです。
(松本重治『昭和史への証言』毎日新聞社1986年6月5日初版)




もとより蒋介石は命乞いなどをする必要はありません。
何もかもがお芝居なのですから。
実際、延安から飛んできた周恩来に久闊を叙し、
「また一緒に『お仕事』をしたいね」と言ったとか。


その『お仕事』の何たるかを知悉していたシゲちゃんは、
『西安事件』の『歴史的意義』を次のように俯瞰しています。



 西安事件の歴史的意義は案外、少ないと私は思う。事件そのものの歴史的意味は大きくない、と思うのです。それが大きな意味を持つようになるのは、六か月後に盧溝橋事件がおこったためです。西安事件というものは、盧溝橋事件がなければ、その歴史的意義は半分ぐらいになるでしょうね。・・・ 西安事件から盧溝橋までの七カ月間はいまにして思えば、日本の命運を決した時期でした。(松本重治前掲書)





張学良の 『抗日演説』
https://www.youtube.com/watch?v=9bInB-NeYn8



何の迫力も覇気も感じられない演説です。
目が虚ろで時々泳いでいます。
この人は精神的にかなり毀れている感じがします。




張学良が回想する『西安事変』
https://www.youtube.com/watch?v=MJ869QzNNzM



動画の36分20秒の画面に注目




元の写真はこうなっている
 
    猿回しの猿                     猿回しの師匠




張学良だけが映っていてウイリアム・H・ドナルドがカットされています。
もちろん故意のなせるワザでしょう。この人物が『西安事変』のキモなのですから。
オーストラリア出身のジャーナリスト、謂わばエドガー・スノーのオーストラリア版。
『辛亥革命』以来のスーパーバイザーとして『満州事変』『西安事件』に関わっています。



ドナルドは幼いころから三姉妹を観察してそれぞれの資質を天秤にかけ
『革命家の妻』に最も適していた次女には共産党幹部を超える権力が与えられたのである


 


ウイリアム・H・ドナルド、エドガー・スノー、須磨弥吉郎、シゲちゃん、
張学良、周恩来、蒋介石、宋美齢、宋慶齢はみんな同じ穴のトモダチ、
トモダチの輪に入らなかった楊虎城はこの二年後に『姦徒誅鋤』されています。


関連写真を見ているとこの連中の上に立っている別格が二人いるのが分かります。
宋子文と于鳳至です。



于鳳至を悲劇のヒロインに仕立てるプロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=nz5dqzIEJs8


確かに張学良はビョーキだと思われます。
しかしそれは『痴情』のせいではありません。
活き活きとしたイタズラっ子だった張学良は、
13歳の頃から大勢の『家庭教師』に特殊な養育を施され、
父親である張作霖もそれを黙認せざるを得なかった。
この人は毀れているのです。
于鳳至と張学良が本当に夫婦関係にあったかどうかさえ疑わしい。


張学良と于鳳至の結婚の経緯については、
張学良と于鳳至の主張は真っ向から対立しています。
張学良は「于鳳至とは結婚式まで会ったことがない」といい、
于鳳至は「一緒に暮らして人柄を見て結婚に同意した」という。
最晩年の張学良が吹聴したトンデモを真に受けた富永孝子は、
于鳳至の言い分の方に『整合性』があるという判定を下しています







下の写真は張学良15歳の時に3歳年上の于鳳至と婚前交渉し、
于鳳至が妊娠出産した半年後に二人が結婚した時の写真です。
これが婚前交渉ですでに一児をもうけている夫婦に見えますか?
新婦から出来得る限り離れて立とうと努めている新郎の手は、
新婦その人ではなく、新婦が座っている椅子の背におずおずと触れています。
たぶん張学良は于鳳至には指一本触れたことがないのでしょう。
そしてこの時以後も触れることはなかったと思います。



http://history.dwnews.com/big5/news/2013-05-27/59195511-all.html
 



富永孝子前掲書によると、張学良は于鳳至に良妻賢母であることを望まず、
部下の軍人との情事を取り持ったそうですが于鳳至が何をしようが異議を挟めなかっただけで、
于鳳至は張学良の御主人さまであって妻ではない。どの写真を見てもそういう風に見えます。



http://tianjin.enorth.com.cn/system/2004/07/09/000817065.shtml
 
1929年10月天津における于鳳至



http://www.people.com.cn/BIG5/shizheng/252/6619/6653/20011014/580993.html

1930年春 于鳳至と子女と張学良(正面を向いていない)
確かに長女は于鳳至が張学良と『婚前交渉』で出産した子でしょう。
于鳳至が連続して出産したことになっている3人の男の子たちは定かではありません。
子どもたちは于鳳至とともに海外で生活し『名門』大学に留学します。
いずれにしても父親は張学良ではなくもっと上の身分の人物だと思います。




http://www.weibo.com/p/2304186b2a1a1f0102vetk?from=page_100505_profile&wvr=6&mod=wenzhangmod
 
  1930年     距離感が伝わって来る




                  後方で遠慮している張学良とチアノ伯
 
             ムッソリーニ令嬢エッダ        序列№1于鳳至






http://www.dianliwenmi.com/postimg_509527_2.html
1930年11月,张学良、于凤至、宋美齢
 
  添え物     序列№1  序列№2    お飾り







http://history.people.com.cn/BIG5/n/2013/1114/c198307-23542570.html
圖為1930年代初,於鳳至、宋美齡和宋子文的合影(自左至右)。 
     序列№2      序列№1





宋子文が持っている力は政治的背景からして明解ですが、
于鳳至が持っている力は非常に不気味なものがあります。




http://big5.xinhuanet.com/gate/big5/news.xinhuanet.com/lady/2010-09/15/c_12536706_3.htm
  1930年,(左起)張學良、宋靄齡、于鳳至、宋美齡、蔣介石
 
               序列№1




于鳳至が持っている力がどれ程のものか想像できる写真です。
肩に手を乗っけられている(肩を組んでいるのではない)宋靄齢の顔は引きつり、
同じく宋美齢は作り笑いをし、蒋介石は背を向けて立ち、例によって張学良は埒外にいます。





http://annirose.blog.sohu.com/199447501.html
宋美齢よりもゴージャスでセンス抜群の于鳳至
 
   序列№2         序列№1




http://i.mtime.com/2306678/photo/5397533/
 
1931年 于鳳至の圧倒的存在感(妖気が漂っている)




http://news.ifeng.com/history/zhongguojindaishi/200910/1021_7180_1398027.shtml
1933年3月12日,张学良在夫人于凤至和赵一荻的陪同下,来到上海做短暂停留,等待宋子文为其办理出国手续。
张学良、于凤至夫妇与长女张闾瑛在英国期间留影。

 
部外者      序列№1  長女








http://www.worldjournal.com/2266340/article-%E3%80%8A%E6%AD%B2%E6%9C%88%E6%86%B6%E5%BE%80%E3%80%8B-%E8%81%BD%E4%BA%8E%E9%B3%B3%E8%87%B3%E8%AB%87%E5%89%8D%E5%A4%AB%E5%BC%B5%E5%AD%B8%E8%89%AF/
1938年在湖南沅陵囚禁期間,夫妻倆在一起。左起宋子文、于鳳至、張學良。
 
やはり宋子文の態度のデカさは特別である




1943年5月5日,于鳳至(前)與她的管家瑪麗亞在于鳳至住宅前。

長期入院して乳ガンの化学治療を受けていた直後
(とても見えない)




被害者と加害者を顛倒させたプロパガンダ
https://www.youtube.com/watch?v=KmBcKFedzaE



于鳳至が同情票を集めているのは本末転倒もいいところです。
于鳳至にとって張学良は思い通りになる道具としての価値しかないし、
于鳳至の手足として使われた趙一荻にしてもそれは同じことです。
趙一荻は于鳳至が自由に活動できるためにその身代わりとなり、
生涯を張学良のお守りとして過ごす羽目になっています。
『歴史に名を残す英雄』に寄り添う女性という役割は、
趙一荻の虚栄心をくすぐったのかも知れませんが、
これほど長期に渡るものだとは想像していなかったでしょう。
年月が経って貧乏くじを引かされたことに気づいたのか趙一荻の表情は暗い。
何でこの私がこんなオッサンと・・・いう苦悶の表情をしています。



 



        チクショーあの女・・   
    



この人は一人でいる時のほうが明るい顔をしています。



元々はこうだったから



 

キレイな自分を撮ってほしい人なのです

 


お出かけスタイルとか




悩殺スタイルなんかも
 




于鳳至が張学良と宋美齢の懇請によって離婚に応じ、
趙一荻が正妻に直ったのは1964年になってからのことですが、
これは于鳳至にしても損のない話です。
1949年に『乳ガンの治療』で海外に出奔してから、
何ものにも束縛されず自由にやっていたのに、
夫と宋美齢に要請されて泣く泣く離婚を承知したことにすれば、
張学良との一切のしがらみを清算できるだけでなく、
趙一荻を差し置いて悲劇のヒロインにもなれるのです。



フルメイクしてドレスアップした『東三省』の『嫁』于鳳至
 




張氏帥府博物館
http://www.geocities.jp/mk88km/2011/20110506_Shenyang2/index.html
博物館中院
http://www.geocities.jp/mk88km/2011/20110506_Shenyang2/index_0506b.html
博物館東院
http://www.geocities.jp/mk88km/2011/20110506_Shenyang2/index_0506c.html
全景
http://www.geocities.jp/mk88km/2011/20110506_Shenyang2/index_0506e.html






錬金術的モデル都市『東三省』に注いだ日本国民の血税




在瀋陽日本国総領事館のブログ
http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/economic/economic_ne.htm



遼寧省の会計報告
http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/economic/northeast/northeast_1_2.htm


吉林省の会計報告
http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/economic/northeast/northeast_2_2.htm


黒竜江省の会計報告
http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/economic/northeast/northeast_3_2.htm





※各自、『東三省』の『錬金術的哲学』の意匠に則った建造物を、
太陽の側から確認されてください。





仮定義 東三省
中国最高支配層の本拠地である


仮定義 TO機関
TOは盗ではなく東の意であり(『東方』は『錬金術的哲学』用語)、
表向きは日本の最高支配層の情報組織であるが、
中国最高支配層のために活動していた情報組織である。


仮定義  于鳳至  須磨弥吉郎
『満州事変』『西安事件』のキーパーソンであり、
『731』の現地司令官である中国最高支配層のエージェントである。






最大定理 
日本は中国の『雛形』としての使い捨てツールである



恐らくこれが『雛形経綸』の指し示す最終的な意味です。
『世界紅卍会』と密接に拘わっていた大本の出口王仁三郎を始め、
世界救世主教、生長の家、創価学会、幸福の科学など、
既存のカルトのほとんど全ては『紅卍会』の統率下にあるでしょう。
中国の『個性化』あるいは『全一性』の達成のために
日本人の信者から膨大な資金を搾取する窓口として機能しています。


ところで日本の『明治維新』が中国の『辛亥革命』の『雛形』、
すなわち薩長政府が共産党政府の『雛形』だとすれば、
日本の最高支配層が徳川宗家(を換骨奪胎した真田一族?)であるように、
中国の最高支配層は清王朝(を換骨奪胎した一族?)ということになります。
得体の知れない権力を持っている于鳳至がそこに繋がっているとすれば、
『東三省』を統括した張氏帥府の『嫁』の出自としては非常に整合性があります。



『満州事変』~『日中全面戦争』の真の功労者の銅像


http://toutiao.com/i6190875094357836289/
 


http://www.weibo.com/p/2304186b2a1a1f0102vetk?from=page_100505_profile&wvr=6&mod=wenzhangmod
 




まことにブラックユーモアを感じさせる碑文です。
こういった中国の『歴史認識』のために使われているお金の一部は、
やっぱり日本のODAなんしょうか。
しかし肝心の于鳳至の目は地位、名誉、権力、金を見ていない。
そんなものは仮初の幻影にすぎない。そういう目をしています。




https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Soong_Ching-ling_and_Yu_Fengzhi.jpg
      
序列№1于鳳至          序列№2宋慶齢(やはり硬直している)


いったいどういう情況でこの二人が会っているのかも謎ですが、
于鳳至が持っている力とはいったい何に由来するのでしょうか。


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