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1.慰安婦問題、韓国が自爆。 jdwsr736さん (2013/11/12 03:26)

韓国民主党のユ・スンヒ議員は、2013年11月6日、朴正煕時代に国が米軍兵を相手に売春する女性らを直接管理していた証拠を公開した。
朝鮮戦争時、売春婦を「慰安婦」と呼んで、韓国政府が管理していた。
その資料には、朴正煕大統領の直筆のサインがあった。

「国家ぐるみの慰安婦の強制や性奴隷」の問題は、むしろ朝鮮戦争時の韓国の行為であって、日本ではない。
非難する慰安婦制度の”恩恵”を受けたのは、米軍であり韓国軍である。

朝鮮戦争時やベトナム戦争時の恥ずべき歴史は証拠も有り、韓国国家もメディアも必死に隠している。
朴クネ大統領は、父親の慰安婦政策を隠すために日本軍を悪者にでっち上げて、矛先を変えているのである

2.別箇の問題を混同していますね ペリマリさん (2013/11/13 10:48)

jdwsr736さん

何でそれが韓国政府の自爆になるんですか。全然違う問題でしょう。

朝鮮戦争時に韓国が米軍に慰安婦を提供したことと、第二次世界大戦時に日本政府が従軍慰安婦を募集したこととは全然別箇の問題です。

また国家ぐるみで米軍に慰安婦を提供したことが『自爆』というなら、日本政府も同様の『自爆』をしています。

それをネトウヨが「これもGHQが強要したのだ、米国が日本を非難する資格はない」というのも間違っています。

日本は自発的に慰安婦を募集したのであり、先頭に立ってそれをやったのは、高松宮と親しく接していたその筋の方です。

ちなみに木戸幸一も下々の情報に通じるために、そういった筋の人たちとはツーカーの仲だったそうです。

3.朝鮮戦争は国連主導の八百長戦争です ペリマリさん (2013/11/13 11:33)

朝鮮戦争は第二次世界大戦の最中に準備されていた八百長戦争です。そのために朝鮮半島は信託統治にされ、南北に分割されています。

日本が朝鮮戦争の特需で敗戦のダメージを払拭したのは御存じと思いますが、もっと重要なことは朝鮮戦争の前夜に日米韓の打ち合わせがあったことです。

米大統領特使ジョン・フォスター・ダレスが京都の徳川宗家と打ち合わせた後、ニューズウイーク東京支局長の私邸で天皇特使と会食、日本の急右旋回、再軍備が始まります。

最近のニューウウイークは「韓国の自爆外交」をテーマに、日韓を歴史認識で紛糾させようとしているのがミエミエですが、桜チャンネル、在特会、ネトウヨは、そういうシナリオに一所懸命協力していますね。

私は愛国心を振り回す行為と、国を愛する心を峻別しています。自分の国を愛していればこそ、隣国の人々の風習や歴史を土足で踏みにじることはしたくありません。


宜しかったら暇な折にでも、長倉洋海がアマゾンの人々の生活を撮った写真集をご覧になってください。草ぶきの家に棲む半裸の人々の、森と共生する叡智に触れてください。

「近代化」によってどれほどの生物が絶滅させられたかご存知ですか。びっくりするほどの数です。

これを「野蛮ぢゃ」の一言で喝破したのが西郷隆盛。まともな神経を持っていたので姦徒誅鋤されています。

4.RAA ペリマリさん (2013/11/20 11:51)

デイヴィッド・バーガミニ『天皇の陰謀』いいだもも訳より参照までに。


花開くロマンス


幣原「改革」内閣が任についてから一週間目、SCAP(連合国軍最高司令官)は、占領軍構成員の大多数は、もう老練な戦闘員ではなく合衆国から来た新兵たちである、と発表した。この占領はすでに軍事行動ではなかった。むしろそれは社会的実験であった。


マッカーサーは、この社会的実験が、重大な試練に直面しているのを気づかった。彼は、第一次大戦後のラインランド占領の際にレインボー師団を率いたことがあり、その経験を通じ打て、歴史上平時の占領軍が成功を収めたためしはない、という確信を抱いていた。


戦争状態のもとで、彼は、兵士が規律を守り敵を尊重するのを感知した。けれども、平時の緩慢な作業に際しては、征服者はだんだん傲慢になり老練な兵士たちが規律を失うのであった。彼は、本国を離れた青年達が、彼らがやり損った勇猛果敢な本ものの征服を埋め合わすために、そのうち婦人達を征服するようになるであろうことを懸念した。


日本は、マッカーサーが自分の軍隊に発生することを予測した心理的弛緩に対処する用意を十分整えていた。和平派の「特殊慰安施設協会(RAA)」がその目的のために国民の魅力を動員した。合衆国騎兵師団が東京に進駐し、割り当てられた兵営や工場を占拠したり検問所を設けたりし始めた最初の日、兵士達は、何台ものトラックに乗った娘達が継訳を従えて道路防塞の所へ降りてくるのに驚かされた。通訳は、「特殊慰安施設協会からのご挨拶です!」と説明した。これらの最初の申し出は、ことごとくはねつけられ、トラックに積んだ贈り物は、荷を解かれないまま送り返された。


しかし、数週間も経つと、日本人への反抗への恐れも静まり、アメリカ人はうちとけ始めた。マッカーサーが、「占領軍兵士と日本の娘との、ふしだらで相手構わぬ関係の異常な拡大を示唆した公開報告についての深い憂慮と嘆き」を表明したのは、それからほどなくのことである。


日本の娼婦は、戦前、その小柄な姿態とすなおな快楽主義、それに彼女らの自尊心と貞淑によって創り出される風雅な雰囲気のおかげで、国際的な好評を得ていた。彼女らは、大多数の都市の周辺にある、飾り壁で囲まれた特別区画に住み、そこで働いた。こうした遊郭の中で一番有名なのは東京の吉原であった。此の治安の四十エーカーの区画には、無数の提灯のあかりがゆらめき、たくさんの露地が走っていた。緊迫の竜や、朱の漆塗鳥居があり、着飾った女衒や幇間、それに大道砂糖菓子売りが道を行き交い、池や庭が格子の門ごしにかいま見え、縁台の上や格子の中のそこここに女達が屯ろしていた。そこには、東洋の魅力と悪徳が凝縮されていた。


マッカーサーの憲兵は、吉原のことを報告で知り、東京に着いてすぐ、「立入禁止」の慶事をするために、まっすぐにそこへ向かった。だが、そこには爆撃によって破壊された廃墟が残っているだけであった。戦災を逃れた女達は大都市や郊外に四散した。僅かでも英語を話すことのできる女達はR・A・A(特殊慰安施設協会)の新会員になり、郊外の古びた古風な宿屋や、R・A・Aが下町に新しく建てていたキャバレーや売春宿で働くために待機していた。


結局のところ、アメリカ人の需要に応えて、横浜のビッグ・テイッツ・バーや東京のハード・オン・キャフェのような露骨な売春の場所が作り出された。けれども、占領が始まってからまだ一箇月も経っていなかったその頃、すでに女達は、彼女らが歓迎されそうな所ならどこにでも、あたかも偶然であるかのように現われ、あちこちで目立たぬよう取引していたのである。兵士達の中には、こんな早くからの女達との出会いを、麻薬による幻覚であるかのように感じた。


幣原内閣が政権についた十月頃、特殊慰安施設協会(RAA)の新会員達は、五十万に及ぶ占領軍の全員を同じように手厚く接待することはできないと称して、アメリカ人の下級兵士と将校を区別し始めた。その時から非戦闘員用の安いホステス・バーや、一般兵士用の花柳界が営業を始めた。立派で綺麗なところは、徐々に将校用に指定されていった。けれども、決して誰もが、これらのことすべてを感謝したというわけではない。優雅な庭園のあるいくつか美しい別荘にはアメリカ式の浴室が備え付けられたが、その他の大多数の場合には元のままであった。大多数のアメリカ人将校は、結局のところ、東京のネオン街にある会員制クラブに通うことになった。


こうしたクラブの中で一番人気を博したのは、「大安」すなわち「多大な満足を与える休息所」であった。そこは裕仁の二番目の弟である高松宮海軍大佐の親友の安藤明‐この猛烈な戦争利得者‐が経営していた。水商売と遊興施設の第一人者である安藤は、占領軍の厚木航空隊基地への最初の着陸よりも前に、抜け目なくその修理作業を行うことで、慈雨文を売り込んだ。彼の経営する「大安」で、彼は、米軍高級将校を英語を話す溌剌とした貴婦人に引き合わせ、毎夜、御木本真珠の首飾りを宴会の記念品として贈呈した。此の気前のよさは彼を何度か破産寸前に追いやったが、彼の方では、その度に闇市での殺人によってそれを埋め合わせたのである。彼は、短い服役を済ませた後、最後は安楽な名誉職に就いた。


こうしたクラブ以外で一番好評を博したのは、楢橋渡書記官長と、他ならぬ前首相東久邇宮の別荘で催された宴会であった。前者の方は、それが余りにむき出しの誘惑であったので、今日でも当時のアメリカ人将官たちを赤面させるほどである。楢橋の別荘は熱海にあった。そこは美しい大衆的な海浜保養地であり、また、南京虐殺の後に松井大将によって建立された慈悲の女神(観音菩薩)の御堂が立っていた。熱海の海岸、山々、名高い温泉、それに女達は文句なしに素晴らしいものであった。


彼は富裕な弁護士で、戦争中は、北京で一番大きく繁盛した聴音哨ホテルを経営していた。彼の使用人の一人である鳥尾子爵夫人(鶴代)は、コートニー・ホイットニー陸軍代将に仕えるある将校(ケーデイス大佐)の愛人となった。ホイットニー代将とは、日本の改革案を策定したSCAP民生局の長である。老練なホテル経営者である楢橋は、彼と「彼の王女達」が、結局のところ、ホイットニーの全幕僚を「捕虜にする」であろうと自慢したものである。


セックスによる買収に加えて、さまざまな桁はずれの買収が横行した。マッカーサーの会計将校を勤めたハロルド・R・ルース大佐の報告によれば、占領兵士達は、一箇月に、彼らの給料より八百万ドルもよけいに故国へ送金していたのである。日本人が中国から略奪した美術品の多くや、かなりの日本自身の財宝が、キャンプバッグに詰めて合衆国へ持ち去られた。東久邇宮自身が古物商に身を投じたほどで、後になって彼は、よく、自分が破産したのは有力なアメリカ人将校への掘り出し物の提供のせいだ、と言ったものである。


宮廷の人質


こうした贈り物や世話を施すことで日本人が手に入れたものは殆ど何もなかったけれども、ただいくつかの情報は別だった。その中には、第一生命ビルの最高司令部内での意見の衝突についての噂やアメリカ人による財閥解体の企てについての事前の情報などがあったが、中でも重要なのは、戦犯容疑者の最終リストであった。実際、法律の階梯や企業連合の再建や財産の正当な所有者への返還なら、アメリカの占領が終わればいくらでも可能であるけれども、絞首刑になった人間だけは生き返らせることはできない。


こうしたわけで、裕仁とマッカーサーは、一九四五年の十月から十一月へかけ、戦犯問題を検討するための極秘裡の会談を少なくとも三回行った。マッカーサーは、少数の悪名高い指導者たちの処罰は、彼の全占領計画中ほんの一部を占めているにすぎない、と考えていた。ワシントンからの返答は、幣原首相が組閣に着手したちょうどその日である十月六日に届いた。それは簡潔にこう命じていた、「戦犯起訴の作業をただちに進捗させよ。・・・天皇に対しては、今後の協議なしにどんな処置も加えるな」。

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