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majick72 サルタン誘導処理

今回は徳川宗家(坂の上の満州王族)が主導した
マレー王侯一族の誘導処理
及びその版籍奉献について検証したいと思います。


これは前回検証した華僑強制献金の側面として捉えることが肝要な点で、
三島事件検証の記事で日本の敗戦直後から日米文化交流という名の侵略が始められ、
そのお先棒担ぎをしていた一人が三島由紀夫であることを書きましたが、
日本占領下のシンガポールで起きたことは文化交流というような生優しいものではありません。
明治維新と韓国併合を併せたような悪鬼の如き所業をマレーで断行しています。



シンガポールのフェニックス・プログラム
①抵抗分子の粛清 
②巨額の強制献金
③王侯処理と版籍奉献
④言語と文化の破壊



叩き台として用意した『徳川義親の十五年戦争』について、
読み進んで行く上でいくつか注意点を挙げておきたいと思います。

注意点その①徳川宗家
その本体は坂の上の満州王族です。  
宗家はすでに三代目で真田一族(満州族)に完全に骨抜きにされています。
御三家(水戸徳川、尾張徳川、紀伊徳川)は最初から錬金術で作られています。
御三家の中で最も序列の高いのは尾張徳川です。TOYOTA発祥の地ですね。
今回主人公として登場する尾張徳川家第19代当主徳川義親も満州王族です。





注意点その②青木書店
あの青木富貴子の尊父が経営されています。
その名も青木春夫。名前からして錬金術的哲学しています。
読んでいてうっかり錬金術されないように注意しましょう。


注意点その③小田部雄二
徳川宗家の御用学者ですので何重もの本読みが必須です。


では以上を念頭に置いた上で以下の資料を読み進まれてください。






小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店

太平洋戦争開始後、徳川は第二五軍軍政顧問の任務についた。徳川の赴任地シンガポールは日本軍の占領後に「昭南」と日本名に改められ、シンガポール島は「昭南島」とよばれた。

一九四二(昭和一七)年一月三一日、徳川はじめ(中略)砂田重政(大政翼賛会議会局審査部長)らが、民間からの軍政顧問として選ばれ、徳川と砂田が第二五軍に派遣された。同年二月四日付の『朝日新聞』で、徳川は赴任の抱負を次のように述べている。

「大正十四年以来私は南方のことばかり考えつづけてきた、しかしそのころは夢だった。誰も私のいうことを真面目に採りあげなかった程だ。その夢が今現実になったのだ。しかも私の考えていた南洋よりはスケールが一段と広がっている。

私のジョホールでの虎狩りはあそこへ入っていく一つの手段みたいなものだった。虎狩という名目でなければイギリスが入国を許さなかったのだ。おかげでジョホールのサルタン・イブラヒムとも二人っきりで話しあふ機会にも恵まれ非常に有難かった。あのサルタンが心から親日家になったのには私の力も相当働いていることとその点だけは自信をもっている。

徳川がマレー赴任を志願したのは、『最後の殿様』によれば、開戦で「ジョホール・バルの国王サルタン・イブラヒム殿下の安否」が気にかかったからであり、サルタン家の保護のためにマレー語のできる自分が宣撫班に最適任だと思ったからだという、しかし、第二五軍や徳川のサルタン統治策は、どちらかといえば威圧的なものであった。

徳川は一九四二(昭和一七)年五月、一時的に日本に帰国した。その目的のひとつは、杉山参謀総長に会い、サルタンの回教上の地位は尊重するが、サルタンの政治上の主権は日本に委譲させるというマレーの軍政方針を提議するためであった。

徳川の軍政顧問としての主たる任務はサルタン統治と文教政策であり、徳川が杉山を訪問し、サルタン問題と文教政策について協議していた事実が、『日記』からも確認できる。

「参謀本部にて杉山参謀総長、田辺(盛武)次長、若松(只一)少将、加藤(論平)少将、櫛田(正夫)中佐、其他の部長数名にサルタン事情及び教育につきて話す」(42・6・2)、「陸軍省にゆき時間、大西中佐始めにサルタン及び教育の事につきて説明する」(6・3)、「首相官邸の大東亜建設審議会総会に於て砂田(重政)顧問の後にサルタン及び文教問題につきて説明する」(6・9)、「軍務局にゆき真田(穣一郎)、白井(正辰)少佐に逢ふ。課長とはサルタン問題につき大臣の上奏案につき話す。実行法を直に立案出す事とす(6・24)などの記事がある。

こうして陸軍中央と軍政の方針を打ち合せた徳川は、六月二七日、ふたたび任地の「昭南島」に向かった。

帰任後、徳川が着手したのは、東京での一連の協議をふまえてサルタン統治の基本方針をつくることであった。『日記』には「サルタンの問題につきて(渡辺渡)部長に話す。鈴木(宗作)参謀長、斎藤(弥平太)司令官に話して大綱を立てることにする。佐藤様に調査を頼む」(7・17)とある。

この結果、第二五軍は「王侯処理に関する件」という極秘文書を作成し、「王侯自らをして自発的に其の政治上における特権を奉納せしむるか如く誘導処理せんとす」という方針を確立した。いうまでもなく王侯とはサルタンのことであり、徳川がサルタン「誘導処理」に携わったのである。

またこの「王侯処理に関する件」では、「王位版籍[土地人民]は日本軍司令官を経て之を天皇陛下に奉納す」という「版籍奉献」の方針が定められた。


そして徳川の『日記』には、「義知と二人でジョホール国奉献の問題につきて話す」(42・7・17)、「義知来たり版籍奉献の事。ジョホール・サルタンンは私に一任する[無条件で]といふこと、昨夜アヂスより返事ありたりと、安心する」(7・20)などの記事があり、徳川親子がまず手始めに懇意のジョホール・サルタンの「版籍奉献」を試みたことがわかる。

この第二五軍の「版籍奉献」の方針は、イギリス植民地下においてすら容認されていたマレー人の伝統的支配者として享受していたサルタンの各種の特権を剥奪するものであった。

それにしても「版籍」を「天皇陛下に奉納す」とは、明治維新の版籍奉還を連想させる。かつて徳川の実父の松平春嶽もかかわった天皇親政の「偉業」を、今度は徳川が「昭南島」で再現しようとしたかのようである。徳川の「アジア解放」構想の底流には、こうした点天皇盟主論があった。



引用者注
前述したように徳川宗家は満州王族によって換骨奪胎されています。
イルミナチオがフリーメーソンの中核に浸透して乗っ取り、
フリーメーソンの化けの皮を被っているように、
満州王族も徳川宗家の化けの皮を被っている訳ですが、
その中枢を占めているのが真田一族という念の入れようで、
そうやって正体が分からないように何重もの入れ子方式にしています。
で、日本人がやっているように見せかけているんですねこれが。
徳川宗家の公式見解では維新の三大功労者は、
徳川斉昭、松平春嶽、徳川慶勝ということになっていますが、
この中から日本人である徳川慶勝を除いてください。
では天皇制は?というとこれは朝鮮王族の必須アイテムです。
ま、朝鮮王族と言ったところで中身はほぼ満州王族でしょうが、
しかし血統は血統ですから区別しておきます。
明治期から大正の2代のみ満州王族が天皇に即位、
以後はまた朝鮮王族に戻っています。
記紀神話もゲルマンの哲学の天才が創案したものです。

王朝文学もゲルマンの文学の天才が創案したののです。
天皇制なんてのはヤプーとは縁もゆかりもないシロモノなんですよ。




「版籍奉献」につづいて徳川がおこなったことは、各州のサルタンから忠霊塔の寄付金を徴収することだった。「昭南島」では「英霊」の魂を祀るために昭南忠霊塔が建設され、九月一〇日に除幕式がおこなわれた。徳川はこの忠霊塔建設に尽力し、サルタンからの寄付金長州の「窓口」となったのである。

またこの間、徳川はサルタンの後継者問題にも関与した。「王侯処理に関する件」にもとづき、第二五軍や徳川は、マレー人の伝統的支配者であるサルタンを軍政に利用しようとした。

しかし、東京の陸軍中央は現地の方針が強硬すぎるとみていた。

本国の登場英機内閣は一九四二(昭和一七)年七月、マレー人の宗教・慣習への不干渉をはじめ、現地軍の強硬方針の修正を求めた。

八月、大本営はマレー軍軍司令官や軍政監にサルタン対策の緩和を指示した。

七月一日に山下奉文に代わって第二五軍司令官となった斎藤弥平太は、漸次、中央の指令に従うようになり、一一月九日、現地軍に寛大な方針を遵守するよう命令を出した。渡辺渡総務部長も大本営の方針に歩みよった。

しかし、徳川はこれに不満で、「渡辺部長と話す。部長は当分消極的にやってくれとの事、志を得ず。山下前司令官との方針を異にする」(42・11・18)と『日記』に記している。また、現地軍も大本営の方針に留保をつけたため、陸軍次官木村兵太郎は第二五軍軍政監にかさねて緊急電報を送り、大本営の方針の励行を迫った。


この後、強硬派の徳川には議会への出席を求めて本国帰還の指令が届いた。しかし徳川はこれを拒否した。


『日記』には、「軍政監に貴族院にて内地帰還の事を断る」(43・1・11)、「東京に帰ることを軍監に断る。議会では帰りたくない」(1・12)とある。おそらく、軍中央は強硬派の徳川を帰国させようとしたのだろう。


マレーのサルタン統治の方針と実態は、その後も中央と現地の認識の違いや、戦局の変化によって微妙に揺れ動いていった。戦局の悪化のなかで軍中央が方針を軟化させたのに対し、徳川の意識はますます強硬になり、戦意は高揚した。


また、徳川はマレーの割譲を知り、憤慨した。


同年七月四日、東条首相は同盟国タイの協力をとりつけるために、バンコクでビルマ二州とマレー四州をタイに割譲する声明を発表し、翌日、「昭南」に向かった。徳川は来昭した東条をカラン飛行場まで出迎え、伺候式にも参列した。



引用者注
東条英機は朝鮮王族です。
満州王族の徳川義親よりも序列はずっと下です。



そして、この日の『日記』の上欄にこう書いた。「トレガヌ、ケランタン。ケダー、ベルリスを分譲する由。二五軍の血を以て占領せる土地。秦如きにそれ程媚びる必要ありや」(43・7・5)。マレーの領土に対する徳川の執着心の強さがうかがえる記事である。



引用者注
『徳川義親自伝 最後の殿様』では、この辺を次のように粉飾して責任転嫁しています。



昭和十六年十二月八日、日本海軍はハワイの真珠湾を奇襲し、陸軍はマレー半島に上陸した。このとき、まっ先にぼくの頭にきたのは、ジョホール・バールの国王サルタン・イブラヒム殿下の安否であった。トラ狩りや象狩りに、ぼくの世話をしてくれたダウト・アブドウラー、ダウ・ダウドなど首脳部の人びとのことであった。各州のサルタン家も戦火から防衛したかった。ぼくは陸軍省に行って、「宣撫班にしてマレーにやってください。マレー語のできるものは、ぼくのほかにいないからです」と談判した。

昭和十七年一月末に、ぼくは東条さんから晩餐に招待された。招かれたのはぼく一人で、大臣以外は軍関係者が二、三人いっしょだった。東条さんが、「実は、閣下を最高軍政顧問にお願いします。べつに辞令は出しませんが、口頭をもってお願いします」これは軍の好意であったように思う。軍政顧問は最高の親任待遇である。ところがぼくには親任待遇を受ける資格がない。親任待遇になるのには、それまで勅任待遇になっていなければならない規則がある。ぼくは官庁勤めをしていないから、勅任も親任もない。軍はぼくをなんとか親任待遇にしろといい、役所は規則上だめだという。そこで東条さんは辞令を出さないでぼくを親任待遇にしたらしい。実際は辞令が出た人びとと同様の扱いであった。



引用者注
手の込んだ作り話ですね。
大日本帝国陸海軍は徳川宗家の意向に添って動かされています。





シンガポールが陥落して一応の整理がつくと、ぼくたち軍政関係はまっ先にシンガポールにはいった。シンガポールは「昭南特別市」になり、軍政顧問の大達成雄さんが市長になった。そして各顧問の分担を決め、ぼくはサルタン九家の保護一般を受け持った。同行した司政長官たちはマレー十一州の長官としてそれぞれ赴任した。ぼくは落ちつくと、山下奉文第二十五軍司令官に挨拶をして、秘書の石井善兵衛くんをつれて昭南市を出発、視察に出かけた。

第二十五軍が進撃した道を逆に、南から北に向かってマレー半島を縦断し、マラツ州をはじめ、各州の着任したばかりの州長官を訪ね、サルタンの王宮のあるところは州長官と同道して王宮を訪ねた。ときにはサルタンの王宮に一泊させてもらった。だんだん北上してコタパルに行き、そこから引き返して、マレー半島の東側の各州を見て昭南市に帰ると、山下将軍に報告をした。さいわいなことに、サルタンも州民も落ち着いて安心して生活していた。

マレー、シンガポールを一挙に席捲したのは山下将軍の第二十五軍であった。参謀長は鈴木宗作中将で、名古屋の出身で、ぼくが親しくしている人であった。軍参謀副長は十月事件に加担した馬奈木敬信くんである。




引用者注
鈴木宗作は尾張徳川の顧問会の一人です。




戦争前、大正の初めごろから、マレーの最南端のジョホール州はもっとも大きく有力で、サルタン・イブラヒム殿下はほかの九つのサルタンの指導的地位にあった。殿下は恍惚感でイギリスのいうことをなかなか聞かなかった・・・ぼくがはじめて石原広一郎くんに会ってから、サルタンをまじえ、三人でよく話すようになった。ぼくのあやしげなマレー語と英語をまぜての会話だが、互いに気持ちは通じた。当時、サルタンは英国に対して不満を抱いていた。





引用者注
石原広一郎は漢民族を麻薬漬けにして強制労働させた鬼です。
鬼が苦力から搾り取ったアガリの一部は1930年代の秘密破壊工作の資金となり、
池上彰(満州王族の口先男)や佐藤優(満州王族の口先男)みたいなのがウヨウヨ湧いて、
お先真っ暗な世相を利用して人心を錬金術しながら15年戦争へと統一していった訳です。





ぼくは石原くんと相談して、昭和九年にサルタンを日本に招待したことがある。・・・ぼくが計画をしておいたので、宮中で拝謁され、陛下から勲一等旭日章が贈られた。サルタンはすっかり喜ばれ、東京、名古屋、京都を見物して帰られた。その翌年の昭和十年十二月に、サルタンからぼくと石原君に勲章がおくられた。ぼくのはダルジャ・カバラット第一等勲章、石原くんは勲一等章である。朴のは最高の綺麗な頸飾章であった。ぼくは、「トウシクー・トクガワ」と呼ばれるようになった。「徳川殿下」ということである。

これがかなり役に立った。マレー各州のサルタン会合のときや、マレーとスマトラのサルタンの全会合のときは、ぼくの責任によって指図が行われた。どのサルタンも、ぼくのいうことをすなおに安心してきいてくれたのである。サルタン・イブラヒム殿下は日本の終戦後に亡くなられたが、マレーの独立が確定して、満足されていた。

山下将軍は軍政には特に心をくばっていた。各軍に厳重に布告をして、サルタンの王宮と回教寺院には軍隊は絶対に入れないように厳命した。王室に兵を入れることは、日本でいえば宮城に兵を入れることと同様で、マレー国民の反発を買う。回教寺院も同様で、略奪暴行でもあったら、全イスラム教徒を敵にまわすことになる。治安が保てなければ、占領地域の統治が困難になるから、山下さんは厳重につつしむようにと指示していた。そのために王宮と寺院には憲兵を配置し、軍隊が入らないようにした。イギリスが禁止していたサルタンの戴冠式もゆるした。そのせいでマレーでは日本軍の評判は良かった。山下将軍の功績である。

山下将軍のマレーでの功績は大きかったし、日本国内でも声望が高かった。ほんらいなら、シンガポール陥落後、直ちに帰国して陛下にも国民にも報告するのが当然であり、部下将兵の全部がそれを希望していたが、東条さんはそれを許さなかった。自分より功績の大きい者、国民の声望の高い人、東条さんに率直に意見を述べる者、つまり東条個人の気に入らぬ者は、ことごとく排斥した。当時、まだ陸軍には気骨のある人物がいた。そんなひとは前線に追い出され、追従おべっか組が残っていただけであった。これが大きなわざわいとなった。山下さんは気の毒にも、ついに日本の土を踏まないまま、天皇にも拝謁ができず、敗戦降伏となり、戦犯として絞首刑になってしまった。不幸な将軍であった。



引用者注
この辺りもウソが多いですね。
山下奉文は満州王族ですから、
朝鮮王族の東条英機よりはもちろんのこと、
朝鮮王族の昭和天皇よりも序列が高いのです。
山下奉文は悲しみの目で金を見ている似非軍人です。
226の時には青年将校を扇動する役を演じています。
マレーの虎などと呼ばれていますが太鼓腹のデブです。
東条英機と同じく実際には死刑になっていません。




(小田部雄次前掲書の続きに戻る)
第二五軍軍政顧問としての徳川の主たる任務はサルタン対策のほかに文教政策があった。東南アジア各地で日本軍が皇民化教育をおこない、アジア民族を天皇中心の日本主義思想のもとに統合しようとしたことは、周知の事実である。東南アジア各地に日本式の神社を建立し、学校では日本語教育や宮城遥拝を強制した。


徳川は当初は日本語教育に反対していた・・・徳川は日本精神医もとづくだ甥東亜共栄圏建設には反対しないが、「南洋民族の美はしき特性」を無視してはならないと主張した。そして、いかにもマレー語に堪能だった徳川らしく、「一般民衆の教育は、マレー語で沢山である」、「無理強ひの日本語教育は、私は絶対に反対である」と述べた。


ところが、シンガポールに赴任するや徳川の考えは一変した。同じ年の『太平洋』の七月号に「南方建設の進展」を載せた徳川は、支配者然とした口調になり、『従来はマレー語が一般通用語になっていたけれども、今後は適切な日本語教育を施して、日本語を通用語としなければならぬと思ふ』と、日本語教育の必要性を強調した。


このように、個人的にはマレー語を愛し、これを好んで使った徳川であるが、彼の使嗾の根幹は天皇中心主義であった。



ところで、太平洋戦争開戦とともに南方に宣伝班員として赴任し、シンガポールで宣伝戦に従事していた文芸家・画家・新聞記者・写真家も少なくなかった。文芸家たちはマレーで日本語普及運動を推進し、たとえば、中島健蔵は「日本語普及運動宣言」のなかで、「天皇陛下の赤子たるよう導くためには、まず我等の言葉を彼等に与えなければならぬ」と述べた。また、この中島の奔走でシンガポールに開設した「昭南日本学園」では、現地の知識人に日本語や日本精神を教えた。校長には詩人の神保光太郎が就任した。


さらに、小説家の井伏鱒二はブラカスの変名で『昭南タイムス』の編集兼発行人になり、新聞による日本主義教育をすすめた。軍宣伝班も「日本語普及運動実施要領」を発し、「学べ使え日本語!」のスローガンで、マレー半島とスマトラ島の住民に対する日本語の普及徹底にのりだした(櫛本富雄『シンガポールは陥落せり』)。



徳川の『日記』にはこれらの小説家や映画関係者の名がみられ、徳川と彼らとの間に一定の交流があったことがわかる。「千田長官に招待される。城戸四郎(松竹重役・陸軍航空本部嘱託)氏も来る・立上る印度を撮影する為にて、多くの印度人(ラス・ビハリー)ボース氏も来る」(43・3・14)、「七時頃、林(房雄)、武田(麟太郎‐小説家・陸軍省報道班員)、小津(安二郎‐松竹映画監督)、青木、沢村、水原の諸君ウイスキーを持って乗り込んで来る。十時頃まで飲んで、蛍の光をうたって帰ってゆく」(12・31)などの記事がある。


林房雄は、戦後『大東亜戦争肯定論』を刊行して世上の話題を集めたが、「昭南島」時代にはしばしば徳川を訪れていたようである。このように、日本文化の宣揚に熱心であった徳川は、宣伝戦を担当していた映画監督や小説家たちとも交流を深めていたのである。







『大東亜戦争肯定論』は『666』の軍事部門の原案です。
林房雄『大東亜戦争肯定論』が出て来たので、
ついでに三島由紀夫『英霊の聲』についても言及しておきます。
三島由紀夫は三つの団子三兄弟のユニットで編成されている超大物です。
長男役の平岡公威は朝鮮王族でこの人には書く能力がありません。
『英霊の聲』の原作もゲルマンの天才が書いています。
ノーベル賞受賞のために「えい!やったれ」と引きうけたお仕事です。
三島由紀夫のひととなりからしても憂国の志とはまったく無関係です。
三島由紀夫が監督・脚本・主演したことになっている映画『憂国』も以下同文です。
これもゲルマンの原作を元にノーベル賞受賞を視野に入れて製作された作品です。
日本に先駆けてフランスの映画祭で公開されているのもプロモーションの一貫です。
この時点で三島由紀夫にあるのは得意の絶頂感だけ、
多少なりとも憂国の志を演じる情熱が芽生えたのは、
ノーベル賞がもらえないと分かって失意のどん底にいるとき、
田中清玄が放った刺客たちにそそのかされた時から・・・・・と私は思わされてきましたが、
そういうナリオを三島由紀夫が演じていたのだと考える方が順当でした。
三島事件にしても本人の自覚としては最初から最後までお芝居のつもりなのです。
但し、その結末が我が身の破滅で終わるということを知らされていない酷いお芝居です。
彼は自決する覚悟など出来ていなかったし、ある程度お茶を濁せば済むと思っていました。
以前私は三島由紀夫が徳川宗家の機密を川端康成に漏らした結果、
川端康成が巻き添えを食って『自殺』に追い込まれたと、そういう風に考えていましたが、
川端康成も変容している似非作家なのですから、今さら秘密をばらすも何もありません。
川端康成には川端康成の固有の理由があったと考えるべきでした。
ここに訂正して浅慮をお詫びします。






(小田部雄次前掲書の続き)
徳川自身も独自に「大東亜共栄圏」建設のための人材養成を積極的にすすめていた。太平洋戦争中、東南アジアの各地域から日本へ多くの留学生が派遣され、徳川が軍政顧問をしていたマレー、シンガポール地域からも一七名のマレー人が日本に留学し、そのうちの五名は徳川が直接に援助した徳川奨学生たちであった。


この徳川奨学生の要請は徳川の個人的援助でおこなわれたが、その背景には軍の確固たる方針があった。つまり、第二五軍は四二年五月一日に、「大東亜共栄圏」建設に中堅的役割をはたす人材の養成機関を設置する方針を示した。「秘・南方建設の人材養成機関設置要領」を作成しており、これは総力戦研究所が作成した「大東亜共栄圏建設原案」や「東亜建設第一期総力戦略案」にもとづいていた。


「秘・南方建設の人材養成機関設置要領」によれば、養成機関は二つあった。ひとつは経綸学園である。経綸学園は軍政部直轄の教育機関として設立され、二〇歳から三〇歳までの日本人を「南方開拓の礎石」として養成することを目的とした。


徳川もこの経綸学園の設置に関与しており、『日記』には、「小川少尉と教育の事、経綸学園の事で打合せ」(42・10・11)、「総司令部にゆき、軍政総監部総務部長高橋(担)少将に会ひ、経綸学園とサルタン問題につきて話す」(10・14)、「軍政部にゆき藤山大佐と経綸学園につきて計画を話す」(10・5)などの記事がある。


もうひとつは図南塾であった。図南塾では、日本人のみならず「支那人、印度人、馬来仁中の優秀なる者、而も相当学歴を有する」人物で、一八歳から二五歳までの男子を養成の対象とした。図南塾設置の目的は、「一億の大和民族を以て十億に達せんとする東半球全域の各種民族を統御統制せんとする、真に難事と云わざるを得ず」との認識から、「大東亜共栄圏」建設のための各民族の中堅指導者を養成することにあった。


この図南塾の構想は興亜訓練所の設置によって実現した。興亜訓練所では宮城遥拝や日本語教育など皇民化教育がすすめられた、規律は厳しく、合宿制度で起床から就寝まで軍隊式の訓練がくりかえされた。興亜訓練所はマレーとシンガポールに於かれたが、卒業生のうち優秀な者は南方特別留学生として日本に派遣された(明石陽至「興亜訓練所と南方特別留学生」)




引用者注
これは大日本帝国陸軍幼年学校と同じ手法です。その元型は死の部隊にあります。
青少年の自我が形成される時期に凍結破壊して家畜(人造人間)として使役します。
226青年将校(退学退役も含む)の大半が幼年学校出身者で占められている所以です。
当初226は『錦旗革命』あるいは『昭和維新』と称されています。
軍部と青年将校らが打ち合わせの上でシナリオ通りに決行されたのですが、
用済みとなった日本人の青年将校は姦徒誅鋤されています。


一方、青年将校の精神的支柱を演じた北一輝、西田税、
陸軍士官学校の狂言を打った磯部浅一、村中孝次、
この4人は王族なので銃殺刑になっていません。
226は坂の上の満州王族の錬金術的哲学を実践したものであり、
ヤプーは王族のために消費される第一資料でしかないのです。
226軍事裁判法廷記録や磯部浅一の獄中日記は、
その真相を隠避するために捏造された創作神話です。


(2017年1月26日加筆修正して再掲)
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