Home > 麻薬問題 > 麻薬問題3  後藤新平と阿片王の絆

麻薬問題3  後藤新平と阿片王の絆

本題に入る前に、児玉源太郎&後藤新平コンビについて触れておきたいと思います。デキレースで日露戦争の勝利で満鉄利権を獲得した大日本帝国は、本格的なアジア版東インド会社方式を始動させます。そのグランドデザインを実地に移したのが、児玉源太郎&後藤新平コンビです。


定理
ポチは芋づる式に繋がっている。




児玉源太郎写真集
http://www.sakanouenokumo.com/kodama.htm


文春写真館(NHK初代総裁に就任した後藤新平の写真あり)
http://hon.bunshun.jp/articles/-/478
「文藝春秋は戦前の貴重な写真を昭和四十年代にNHK関係者から買い取った。その数三千四百点に及ぶ。」



第四代台湾総督府総督に就任した児玉源太郎は、子飼いの後藤新平を台湾総督衛生局長に据え、阿片漸主義を建議させます。やがて漸禁主義に則った台湾阿片令が施行され、供給用として日本内地のケシ栽培が奨励します。



なお、漸禁主義の実態が、建前とは遠くかけ離れた犯罪行為であったことは、既に拙稿(麻薬問題3 存在していた批判記事)に述べられていますのでそちらをご覧ください。



では二反長半『戦争と日本阿片史 阿片王 二反長音蔵の生涯』
より該当箇所を順不同に抜粋します。




この時明治二十八年十二月、後藤新平は時の台湾総督府児玉天太郎陸軍大将に乞われて台湾総督府衛生顧問となっていた。新平はこうしていよいよ台湾阿片に直接取り組むことになったわけである。



音二郎(引用者注 川端音二郎 二反長音蔵の旧名)が内務省に建白したのは、このような時点であった。そのころの日本では、ケシをつくることは厳禁といってよかった。そのケシを二十一歳の青年川端音二郎が大胆にもなぜ栽培したのか。


音二郎がケシの栽培を思いついたのは、新聞で台湾島民の吸引阿片を輸入する金額の莫大さに驚いたからで、そのための国費の海外流出が国の経済にまで影響すると書いてあったことによる。音二郎は村を出奔、筆墨を売っては旅費をかせぎ東海道を乗りつぎ乗り継ぎ東京へ出て、第二次伊藤博文内閣へ、日本内地での大々的ケシ栽培阿片製造の必要を建白し、それが後藤新平衛生局長の名によって、試作認可されたからであった。



 

17,8歳ごろ川端音二郎時代、
ケシ栽培建白のため上京したおり
東京で撮影




時の内務省衛生局長後藤新平を、野良着姿のまま出むかえた川端音二郎は、さっそく自分のケシ畑へと新平を案内した。明治二十九年(一八九六)五月のことであった。摂津の国大阪府三島郡福井村(現在の茨木市福井)は、西に六甲、北に竜王山を望む老ノ坂山脈の麓、福井盆地にあった。後藤新平は、台湾に咲く白ゲシも大陸のそれも知っている。だがそれらとは比べものにならないほど音二郎の畑はみごとだった。



青年農民音二郎は、紋付羽織の村長たちが、ただ平頭している後藤衛生局長に、自分のケシ栽培阿片製造の決意が、あくまで日本国家を思ってのことであり、放置すれは死を迎えるばかりの、台湾でいう阿片癊者すなわち中毒患者救済という人道的立場からであることを強調した。


「川端君、わしの意見と、君の意見とは、まったく寸分たがわぬと言ってよいくらいだよ」新平はそう言い、栽培試作を許すまでの心境を語り、このケシの果実がっぽから、阿片になる紅い汁がにじみ出る日を期待すると、台湾統治のことと結びつけて説明した。



そうして幾多の難関を経過して、台湾総督府評議会の議決をへて「台湾阿片令勅裁ヲ得テ茲ニ之ヲ発布ス」となった。明治三十年一月二十一日である。時の総督は、男爵陸軍大将、乃木希典であった。川端音二郎の畑には、もう二度目の試作ゲシが白花を開き、阿片採取のために刃で傷つけられたこぶし大のがっぽの線からはモルヒネのにおいがあたり一面にただよっていた。五月の空を飛ぶ燕も、まるで酔っているかのように放物線を描いている。




三島種の果実がっぽ。縦の線は阿片採取
のために切った切りあとで、生阿片のヤニ
のいくらかがへばりついている




「これでいよいよわしの阿片もケシも、本番に入ったで」その畑には「台湾総督府罌粟栽培試験園」と書かれた棒ぐいが立っていた。



 
薬用阿片採取風景。福井村を中心に約500アール
栽培され、採取人は日に1,8000人にものぼった




はじめは若い音二郎をばか者あつかいにしていた者も、「音さんのやりよることは、ちょっとケタがはずれとるな」そんなふうに言った。すべて後藤新平の強力な支持と推進によるものである。


この時後藤新平は、いよいよ台湾衛生、とくに阿片問題と取り組むために顧問としてではなく、実質上の台湾民生長官として、明治三十一年三月東京をひきあげ、総督府に赴任していた。こんどもやはり、児玉総督のつよい推薦によるものだった。



台湾でのケシ栽培は、明治三十一年の台湾阿片令によって禁止されていた。それは漸禁主義はとっていても中毒患者横溢となれば密輸につぐ密輸栽培が民生を屈折させる根源となるからであった。音二郎は思った。「ほんじゃわしの責任は重うなったど。癊者(中毒患者)吸引の薬用アヘンは、どうしても日本内地で作らなあかんわい」



明治四十四年につくられた『福井村沿革誌』という冊子を見ると、なんと音蔵は「奇人」の部に入れられ、こんな風に書かれている。「二反長音蔵、川端七郎ノ四男ニシテ二反長家ヲ嗣ギ農ニ心ヲ注ギ本部耕地ノ冬作ハケシ栽培阿片製造ノ有利ナルヲ確知シ、台湾総督府ニ阿片買上ヲ願シ、明治三十八年総督府ヨリ本部ニ於テ耕地弐拾町歩ケシ栽培試作センコトヲ命ゼラレ・・・・・・」


これによって見ると、明治三十八年になっても、総督府はまだ正式の栽培ではなく試作というカクレミノの中で、音蔵にそれまで十年もの間ケシを栽培させていたことになる。日本内地の法令とは別扱いをしていたのだ。が、二十町歩の試作はなんとしても広範すぎる。



しかし音蔵は生まれつきの貫徹型である。そんなことは一向におかまいなかった。必死になって、彼は百姓をつかまえては言った。「あんた、麦なんか作るのんやめなはれ。ケシのほうがもうかりまっせ。台湾総督府お買上げや。密作密売やおまへんさかいにな。ケシ作んなはれ、ケシ作んなはれ」


それも同僚の田中平太郎と連れだって、春日村、三島村、安威村、溝咋村‐今の茨木市、高槻市の農村を片っぱしから説いて歩いた。そのあと音蔵が、明治四十四年に時の皇太子殿下(大正天皇)が茨城町に行啓の際、物産陳列場に、自作ケシの実を出品お買上げの栄を得たとある。





大正4年秋、大正天皇の即位を奉祝
してケシの果実とケシ栽培に関する
自著を献納したときの音蔵




台湾総督府のケシ試作田は、はじめの計画では二千町歩だったのだから音蔵はこの時「これは大変」と思ったが、これこそ男子一生の仕事と再確認したのだ。さっそく大阪府ばかりでなく京都府へ出かけ、桂村を説得、栽培指揮監督にあたった。これも村誌にのているが、今は音蔵となった音二郎は、台湾民生長官、後藤新平とつねに緊密な連絡をとり、阿片の内地生産にこれ努めたのだった。


音蔵が音二郎時代に上京したとき、ケシ栽培の建白を内務省でとりついでくれた衛生局員の加藤尚志は、新平につづいて渡台し、台湾製薬所長の要職についていた。こうして、後藤新平、加藤尚志、二反長音蔵は、それぞれの個性を強く持ちながら、阿片という絆によって、みごとに結ばれていた。


「わいは、世のため人のため、国のためになることは何でもやるんや。中でも、ケシ栽培は国のための第一の仕事やど」





後藤新平から音蔵にあてた手紙の一部。音蔵に
著書を進呈した旨、記されている



ケシ畑は音蔵の畑ばかりではなかった。五月になると大阪平野が白くぬりつぶされるほど。ケシ満開の大阪平野をはじめて眺めた者は、初夏に雪が降り積もったものと間違えた。雪景そっくりだ。


あるとき、東海道を、アメリカ夫人が一等車に乗って通過した。窓外のこの景色を見て嘆声を発した。「なんてきれいでしょう。あれ、何の花ですの」通訳に聞いた。ぽ通訳にもわからない。隣の乗客の説明で、はじめてケシとわかって・・・教えると、アメリカ夫人は蒼白となり、奇声を発した。





音蔵の奨励により栽培をはじめた日新商行ケシ栽培地
の光景。向かって右より2人目が音蔵




そのころには、毎年、音蔵の栽培地で講習会が開かれ、内務省、台湾総督府はもとより、農業技師衛生技師が多く音蔵のもとにつめかけていた。大正七年七月寺内正毅内閣の時のことである。


この年、日本はシベリア出兵の声明を出しており、国内では米騒動の起こった年だ。


それやこれやで二か月後の九月にはもう原内閣に変わっているというあわただしい年だったが、音蔵は、その中で、ただ一途にこんな建白書を出していた。


(引用者ダイジェスト 建白書には、ケシ栽培の管轄が、内務省と農商務省の縄張り争いを経て、内務省専属となったことを嘉し、もっと講師と耕地を増やし積極的な政策を取ってほしいという要望が書かれている)



(抜粋続き)
「本問の阿片つくりはこれからや、これからや」したがって、その講習かい風景は異彩を放ったものだった。大体、一週間から十日にわたって、採取期間中開かれるが、「内務省罌粟栽培阿片製造講習園」と棒ぐいに墨痕鮮やかに書かれた畑は、とくに音蔵が丹精こめて研究講習用にと栽培した畑だからみごとだ。


全国農村また役所から集まった講習員は、毎年数十名。制限しているためだが、なにしろ人口千人の福井村だから、講習期間は人口が急膨張である。講師は、内務省技師、大学農学部、薬業専門学校等の教師陣が理論をうけもち、実地指導は、音蔵および田中平太郎に、小学校長室彦太郎その他関係者農民があたった。



講習員は、三組ぐらいに分けられ、学術講義は小学校の教室において、生徒たちの帰った放課後に行われた。音蔵は、講習会の期間中、眠る暇もなかった。野良着姿で、がっぽ果実にかみそり刃の刺し方を指導するかと思うと、教室へ入っては、午前中実習した採取法の理論を、講堂で行った。小さな村がどんでんがえしだ。


なにしろ講習員は、北は樺太、北海道、南は沖縄、台湾、そして朝鮮からも集まっていたのだから、むりもない。






 

内務省主催の第3回ケシ栽培阿片製造講習会に
参加した講師・講習員が実習地のケシ畑に立って記念撮影



阿片採取のほうは、音蔵が台湾総督府管轄から内務省管轄になったのをきっかけに、積極的に国内生産の一大奨励をはじめていたからよかったものの、高度の科学技術を要するモルヒネ抽出に関しては、農民の音蔵にはどうにもならないこと当然だった。人まかせだ。


そこへ目をつけたのが星一である。星はすぐさま、台湾総督府専売局にかけあった。星はその時すでに、台湾台北にりっぱな製薬工場を持っていて、モヒ製造にもこれを利用すればよかったのだ。星の強味は、なんといっても、この大工場が台北にあるということだった。


というのは、当時の阿片法では、民間人は、モルヒネ製造は許されていない。たとえ許されても内地ではやれなかったからだ。したがって日本でのモヒ製造は、星一への独占許可となったわけだ。胃腸薬が大手看板の星製薬だが、モヒを扱うようになってから、たちまち「薬は星」と言われるほどの最大の製薬会社にのしあがってしまった。あっという間だ。



そして、音蔵の研究改良の結果は、モルヒネ含有量が、ついに三五%という驚くべき優秀品を作りだ出していたことである。後藤新平が、この音蔵に、『盡性窮理』という一時一尺四方大の揮毫音蔵宅でほどこしたのはこうした折であった。


星製薬はふくれにふくれ、その隆昌はとどまるところを知らない。なにしろインド阿片はモルヒネ含有量六%、ペルシアものが九~一一%、トルコものが一〇%から一四・五%‐そこへ日本産の優良品までが加わって、一律に星に払下げられるのだから、これで、星製薬が大きくならなければ不思議というべきだろう。



(引用者ダイジェスト ところが大正八年原内閣第四十一議会において、星製薬への払い下げに関する問題提起が突如として持ち上がる。台湾総督府専売局長高等官夫人たちによって組織された婦人慈善会員が、星製薬の株の大半を所持しているばかりか、高等官二十名も株式名簿に載っていたことが発覚。原敬が暗殺されると後を引き継いだ高橋是清内閣も、引き続き星の違法を厳しく追及、大正十三年加藤高明内閣が誕生すると同時に、星製薬への払い下げは中止される)



(抜粋続き)
後藤新平は、その後明治四十一年に、第二次桂内閣の逓信大臣、大正元年、桂太郎の第三次内閣にも逓信、大正五年の寺内内閣では内務、また外務もやり、大将九年には大物東京市長として登場し、首都構成に熱意をもやした。が、これは二年間でやめ、華族制度が敷かれると、大正十一年九月に子爵となり、国家の中枢人物となった。


後藤新平は、震災時にはもう東京市長を退いていた。しかし自分の抱負で一大改変をした首都が、一夜のうちに灰になったことは悲しかった。だが、「国家膨張論」を説き「大亜細亜主義」を実践に移そうとする新平である。革命以後のロシアと国交の断絶が行われていることを非常に残念に思った。十二月新平は焼野原の桃郷へ、革命政府のヨッフェ氏を招いて、日露国交回復の予備交渉をはじめ、その目的を達したのだ。これによって新平が何を考えていたかが判るだろう。



引用者注
国家膨張論も大亜細亜主義も後藤新平のオリジナルではない。またヨッフェ・新平の対談を根回ししたのは真の麻薬王ともいうべき藤田勇である。いずれも徳川義親(表用のダミー)に仕えるポチである。


特筆すべきは、加藤高明が尾張徳川家の「相談人」ということである。加藤高明は宰相としても公職よりも、相談人という私的立場を優先させている。


仮に公務を優先させるとどなるかというと、陸軍教育総監渡辺錠太郎のようになる。渡辺錠太郎もまた張徳川藩の相談人を兼ねている。しかし給料の大半を丸善の書籍代に使う学究肌でもある渡辺錠太郎は、226ヤラセクーデターを画策する流れに逆らって、堂々と荒木大将に正論を吐く。結果、226ヤラセクーデター勃発の折に姦徒誅鋤されている。


私見では226はヤラセクーデターなので、軍法会議は開廷されていない。しかし実施されたという体裁をとるために、裁判資料が捏造されている。そして捏造された裁判資料にも何種類かあり、原秀男が「発見」した軍法会議資料と、尾張徳川藩の相談人である小川法務官が持ち出した資料は別物である。


後者は「100年後に公表するための226裁判資料」である。この裁判資料が徳川黎明会に保管されている経緯については、拙稿で既述した通りである。現時点においても奴隷国家日本の公務はお飾りである。


最近与えられた「アジア軍拡の罠」というテーマは、100年前に与えられたJAPANデヴューの裏バージョンに過ぎない。世界支配層は極東を常に不安定な状態に置いておく必要があるのである。



(抜粋続き)
そして、音蔵の「阿片狂」は、明治の終わりごろには、狂の字のケモノヘンがとれて、「阿片王」となっていた。だれが言いだしたのでもない。東京、台湾の高官が福井村を訪れるたびに、また音蔵が阿片に関する建白をしたり意見発表をするたびに、取り上げる新聞が、そう命名したのだった。最初にこの「阿片王」をつかったのは朝日、毎日と並ぶ当時の権威紙、大阪時事新報だった。そのとき、その新聞を見て、音蔵は言ったそうだ。「この字、まちごうとるがな。左の半分落ちとるがな」





大正11年、当時大阪三越にあったNHK大阪から、
ケシ栽培阿片製造についてラジオ放送する音蔵



以上抜粋。



NHKの倉庫には色んなお宝が埋蔵されている。



コメント

コメントを受けつけておりません。

ブログ内検索

RSS・ブックマーク

最新記事

(11/01)
(10/23)
(10/01)
(09/18)
(09/02)
(08/06)
(07/07)
(07/07)
(06/01)
(05/11)

最新コメント

[02/27 ペリマリ]
[02/27 ペリマリ]
[02/26 ペリマリ]
[02/26 ペリマリ]
[02/16 ペリマリ]
[01/20 ペリマリ]
[01/17 クールCyrusII]
[11/20 ペリマリ]
[11/13 ペリマリ]
[11/13 ペリマリ]
[11/12 jdwsr736]
[09/05 ペリマリ]
[03/16 ペリマリ]
[03/15 NONAME]