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従軍慰安婦問題3  創氏改名

(前回の続きです)


小熊英二『単一民族神話の起源 <日本人>の自画像の系譜』新潮社より


一九三七年の日中戦争の開始と前後して、一九四〇年の創氏改名を頂点とする皇民化政策が本格化した。


一九三六年に着任した総督南次郎は、少なくとも表向きは、内鮮結婚にわけても熱心であった。彼は、朝鮮と日本は「形も心も血も肉も悉くが一体にならなければならん」と呼号し、「司法の領域における内鮮一体の具現」として、氏名の共通、内鮮通婚、内鮮縁組の三項目をあげている。


奨励のもとで内鮮結婚は増加の一途をたどり、朝鮮では一九三七年に一二〇〇組を突破。一九四一年三月には、前年の朝鮮での内鮮結婚夫婦一三七組が、南の書いた直筆の掛け軸を贈られて表彰された。


また日中戦争以後、動員された労働者の穴をうめるべく、強制連行などにより大量の朝鮮人労働者が列島側(内地)に移入された。一九二五年には一三万人だった内地在住朝鮮人は、一九四〇年には一一九万人、一九四五年には二〇〇万人をこえた。その意図せざる結果として、内地でも内地人女性との通婚が増大した。政府による内鮮一体推進や内鮮結婚奨励も、それを加速していた。


そして当然、これらは優生学系勢力にとって、しだいに無視できない問題になっていったのである。


皇民化政策期の朝鮮総督府関連発行物は、混合民族論を大々的に利用した。たとえば一九三七年に総督府学務局が発行した『古代の内鮮関係』は、「日本には昔色々種族が多くありました」として天孫、出雲、蝦夷、熊襲をあげ、「この四代民族が結合して今日の日本民族をなしてをるのである」という。そしていまでは日本と朝鮮が天皇のもとに統一され、「この二つの民族が完全に一致融合してこそ、本当の大日本民族を形成し、世界に雄飛するに至るのであらう」とされている。


一九四一年六月には、総督府公認の『内鮮一体ノ理念及其ノ具現方策要項』が発行される。そこでは、歴史上「多数ノ朝鮮人ガ日本ニ渡来シ」同化したことが強調された。そして、「西洋ノ社会構成ハ概ネ民族ヲ以テ其ノ本位ト為ス」ために民族自決運動と国家分裂が起りがちだが、東洋には「民族協和思想」があり、日本では天皇家のもとに「渾一ノ日本民族ヲ形成」してきたという。


この「要項」の発行以来、それに沿って皇民化政策を賛美する講演や出版が多数行われた。そして注目すべきことに、そうした皇民化賛美には混合民族論だけでなく、ナチス批判も含まれていたのである。


総督府がナチスを批判するとは、意外な印象を与えるかもしれない。だがくりかえしになるが、ナチスのユダヤ人政策は民族間結婚を厳禁し、兵役からもユダヤ人を排斥して収容所やゲットーに送りこむものであった。もしそうした政策をそのまま朝鮮に適用すれば、総督府が奨励する内鮮結婚が否定され、朝鮮人の徴兵もできなくなるのである。


もちろん、これは朝鮮総督府が朝鮮人を平等にあつかおうとしたことを意味しない。彼らは朝鮮人の日本軍入りを名誉として宣伝したが、一方では上記の『要項』や以下の皇民化賛美論者も、内鮮一体とは権利義務の平等のことではないと強調している。彼らは差別を維持したまま、ただ朝鮮の民族的独自性を抹消し動員しようとしたのであり、それは喜田などが唱えた<良心的>同化論からさえほど遠いものだった。だがそれでも、ナチスの純血政策が朝鮮に直輸入されることは、朝鮮総督府にとっても不都合であったのである。


たとえば一九四一年、総督府警務局保安課長の古川兼秀は、ナチスの影響をうけた「血の純潔汚損論」の台頭を非難した。古川は、「政府が之を採用して制度化したならばとんでもないことになる」と述べている。純血主義をとって日本民族以外は「日本人」と認めないなら、朝鮮人は「婚姻禁止どころではなく皇国臣民でないといふことになり」、皇民化政策も徴兵もできなくなってしまう。


また総督府情報課長の倉島至は、一九四二年に「血液の混融」と題しこう述べている。「我が国に於ける体質人類学的な研究によって見ても、中部朝鮮の半島人は近畿地方の内地人と諸般の点で極めて類似してをり、その差よりも内地人の地方差の方が遥かに大であると発表されている。」


また、朝鮮総督の南次郎は、太平洋戦争開戦にさいした講演で、こう述べた。「更に、肇国三千年の日本の歴史を回想して、今日の大和民族を形成する我等の祖先を尋ねてみれば、決して単一な大和民族のみではなくして、或いは区、阿蘇、或いは支那、南洋、又は三韓・・・等々の各地から渡来した帰化人が甚だ多いことを発見するのであります。・・・新撰姓氏録などによると、近畿地方を中心とする当時の日本人口の約三分の一は朝鮮の帰化族によって占められてゐたことが、想像し得られるのであります。」南はさらに、高麗王を祀った埼玉県高麗村の高麗神社の事例などもあげて、それらを同化した「八紘一宇の大理想に基く一視同仁の大和愛の崇高さ」を賞賛した。


天皇の血統も、タブーではなかった。日本浪漫派の保田与重郎は、一九三八年の朝鮮旅行の紀行文で、「桓武天皇の御母」は「百済王族の出」であり、天皇家と朝鮮王家の血縁関係という伝説を信じていると書いている。また親日派知識人の李光沫は、一九四一年に総督府の許可を得たとして神功皇后と桓武天皇の出自を述べ、日朝は上下まで血縁だとして、内鮮一体促進を説いた。


こうした論調のもとで推進される皇民化政策に、日本民族純血論の側からの反発が存在したことは無理もない。戦時言論統制のさなかに反発は表出しにくかったが、古谷栄一という人物は創氏改名反対のビラを印刷して総督府に抗議し、貴族院議長あての請願書まで出している。


創氏改名で日本伝来の名を朝鮮人に与えることは、「日本民族の家系に対する偉大な侵害」「国体にとって、共産主義よりも恐るべき腐敗思想の温床」で、祖先の血統が不明確となり、姓氏の「皇胤比率を低下せしめる」行為である。


名字の区別がつかなくなれば、差別が不可能になってしまう。古谷の動機は、それに尽きていた。
実際の創氏改名は、表面的に日本風の名に変えたとしても、戸籍によって出身が把握できることを前提とした政策であり、それで古谷が怖れたように出身差別が不可能になりはしない。


くりかえすが、朝鮮総督府側は、内鮮一体は権利義務の平等ではないと強調していた。その主張は民族の抹消ではあって差別の解消ではないし、いざとなれば異民族とよんで差別することも躊躇しなかった。内鮮一体を叫んだ総督の南も、朝鮮人に知られない枢密院会議では、彼らは異民族だから同列にはあつかえないと述べている。



こうした論調は、朝鮮総督府に限らなかった。台湾で一九四三年に発行された、『論説文例改正名読本』は、「御承知の通り大和民族も、初めから決して単一純粋な血族ではない・・・渡来して帰化したところの幾多の者もあったのであります」として、「渾然一体の大和民族」らしい姓名に変えるようよびかけた。また満州帝国協和会は、一九三九年発行のパンフレットで、列島太古の民族混合をあげて、日本民族は歴史的に「血液の中に民族協和の精神を保有してゐる」とし、満州帝国の指導的役割を担うことを正当化している。



優生学による社会改造を掲げる日本民族衛生学会が設立されたのは、一九三〇年のことである。五年後には見本民族衛生協会に改組された。運動目的は、遺伝病者や「劣等者」の断種、優生学者の診断による「優生結婚」、産児制限反対、日本民族の人口増殖などである。創立時の評議員には、吉田茂や鳩山一郎といった名も見える。



一九四三年、厚生大臣の命令により、厚生省研究所人口民族部は、三〇〇〇頁を超える『大和民族を中核とする世界政策の検討』を作成した。一〇〇部だけが政府部内に配布された機密資料である。この人口民族部の人口政策部長や厚生技師などは日本民族衛生協会の大会で報告しており、厚生省研究所は協会に大会会場を提供していたほどだから、両者には密接な関係があったといってよいだろう。



この文書からは公開メデイアの遠慮がちな表現よりふみこんだ、優生学系勢力の民族政策観がうかがえる。まずこの文書では、混血防止がくりかえし強調されている。進出地域民族との混血は「優生学的考慮」を欠いたもので、「同化政策の美名の下に実質的に反って大和民族の統一性を破り、文化水準を彼らの位置まで低下せしめる結果となり、自ら指導者の意識と力を放棄することになる」という。混血防止対策としては、海外進出者には配偶者を同伴させることが掲げられた。あた愛国心教育のため、現地生まれの日系二世には、一定期間の内地留学を義務づけるとされた。


さらに、強制連行で急増した内地在住朝鮮人と日本女性の通婚増加が、警告されている。混血が望ましくないばかりか、「本来指導又は征服民族の男子が被征服民族の女史を妻とするのが支配関係の言族であるが内地に於いてこの関係は逆になってゐる」という。じつは、朝鮮総督府が表彰した朝鮮での内鮮結婚夫婦も、八割ちかくが朝鮮男性と日本女性の組み合わせだった。


そして、人口民族部の前身である厚生省人口問題研究所が調査したという千五百組あまりの内地在住朝鮮人男性と内地女性の通婚例が検討され、その混血児は「恥を知らず国家精神に於いて希薄」とされた。また、朝鮮人男性を「内地人と誤認」して通婚するケースが多いことが、「過度の内鮮一体論と創氏改姓(ママ)に基く悲劇的側面」と形容されている。強制連行されてくる朝鮮人が青壮年男性中心なのだから、朝鮮人男性と日本女性の組み合わせが多くなるのは当然だった。また、日本風の名を強要され日本語を習わされた朝鮮人が、「内地人と誤認」されやすくなるのも当然だった。


この状況は、厚生省研究所の研究官たちにとって、許しがたかったにちがいない。では、彼らは朝鮮・台湾をどうしようというのか。「東亜民族人口対策」という章に設けられた「台湾人・朝鮮人の強制移住」という項目がそれに答える。ここでは、「朝鮮、台湾は兵站基地として重要なる地位を占めてゐる」にもかかわらず、「彼等は出産率高く今尚同化してゐない」と述べられ、「獅子身中の虫たることを防止するために」と称して、以下の五項目が提案されている。


1 内地在住朝鮮人を内地に安住せしめず戦争終了後は送還する「出稼」としての観念を明瞭にすること


2 北鮮、東満国境の朝鮮人はソ連との関係に於いて危険なければ内地人を集団移住させ鮮人を他に移すこと


3 朝鮮人をニューギネア等の不毛地の開拓に移住せしめること


4 朝鮮、台湾には少なくともその人口の一割を内地人にて占めるよう工作すること


5 統治方針の過度の内鮮一体論は逆に内地人が朝鮮人に圧迫されてゐる結果となってゐるが故に是正すること


古屋らが主張した、原住者を追いだし日本農民により朝鮮・台湾を再占領するという構想が、より具体化されているのがうかがえる。


内鮮一体の是正をうたった第五項には、見直すべき政策課題が列挙されている。そこには、「創氏改姓(ママ)の問題」「内鮮通婚の問題」も含まれていた。また「内鮮人紛争の問題」「経済及労働条件の問題」「風紀犯罪の問題」といった、強制連行などの動員で発生したトラブルがあげられている。さらに「内鮮共学の問題」もくわえられており、これはかつて東郷も主張していた、隔離政策の提言とみてよいだろう。



さらに注目すべきことに、「徴兵制の問題」も見直し項目に入れられていた。徴兵制は当時すでに朝鮮に施行することが決定していたが、その見直しとは、軍隊から朝鮮人を排除することをねらったものと考えられる。


武器の使用法を覚えた朝鮮人が多数生まれることは統治に危険であるばかりでなく、当時の日本側の多くの人びとにとって、<名誉ある皇軍>の純血が朝鮮人に侵されるなど許しがたいことだった。もし朝鮮人が軍隊で勲章をもらえば蔑視することが困難になるし、朝鮮人将校には「日本人」といえども服従せざるをえない。実際、日本陸軍には最高位で中将になった者をはじめ、志願などですでに入隊していた少なからぬ朝鮮人将校がいたのである。


ただし朝鮮・台湾を人的資源として利用しないというのではなく、「台湾人、朝鮮人の労働強制徴用」は別項にうたわれていた。


また軍事動員にかんしては、日本軍への編入ではなく、「東亜共栄圏諸民族の軍隊、外人部隊の編成、利用」が提言されていた。朝鮮人部隊、中国人部隊などを内地人部隊と隔離して設置し、内地人将校を送りこむという方式なら、日本軍の純血をそこなうことなく異民族を軍事動員できる。徴兵して日本軍に入れてしまうと、功績をたてた者は日本軍のなかで昇進させざるを得ないが、制度的にべつの外人部隊に入れておけば、そうしたことはおこらない。


またこの文書は、日本民族の起源にも深い関心をはらい、一章をそれに費やしている。その内容は、当時の定説を認めはするが、混合も「原日本人」が主幹となって行われたうえに永年の純血期間を経ているから、すでに現在は「固有な純系人種」だというものであった。じつは、「大和民族ノ純一性ヲ保持スル為現地定住者ニハ家族ヲ同伴セシム等必要ナル措置ヲ講ズ」ことは、一九四二年七月に大東亜建設審議会から出された「大東亜建設基本方策」の、人口及民族政策答申でもうたわれていたことであった。



第二次大戦の敗北後、日本は進出地域から追い払われた。とくに朝鮮・台湾を喪失したことで、帝国人口の三割を占めていた非日系人は、一気に激減した。敗戦によって、同化論は家族国家論などそれまでの論理が使えなくなると、日本の知識人たちは、国内の異民族を論じる枠組みを喪失してしまった。彼らの大部分は、帝国の膨張に歩調をあわせるかたちでしか、異民族との共存を論じる術をもっていなかった。



論理の転換をせまられたのは、それまで正しいとされてきたものすべてであり、それら一つ一つについて、論理のつくりかえが行われなくてはならなかった、だが、多民族国家として新しい日本を構想するという試みはほとんどなされなかった。国内の異民族はすでに少数であり、目前の課題は山積していた。むしろ戦後の知識人には、もともと国内異民族は帝国の膨張によって編入されたのだから、日本が多民族国家になったことじたいがまちがっていたのだ、と考えるものもいた



国内に残留した朝鮮人・台湾人などに関しては、一日もはやく独立した祖国に帰れるよう助けることのほうが、日本国内での共存を構想するより望ましいこととわれやすかった。当然ながら、それは多民族国家としての日本という思想には結びつかなかった。アイヌについては、ごく一部の関心をのぞけば、ほとんど看過されていた。



こうした状況のなかで、戦前の軍事的な多民族帝国にかわって、単一民族の平和国家を主張する論者が台頭した。異質な者を含まない、またそれゆえ平穏な島国という日本の自画像は、戦争に疲れた人びとの心をとらえる力をもっていた。そしてその平和な島国の統合の象徴こそ、天皇であった。



敗戦直後の一九四六年、リベラルな論壇の再興をめざして創刊された雑誌『世界』が、津田左右吉に執筆を依頼した。まず同年三月号に「日本歴史の研究に於ける科学的態度」という論文が掲載されたが、そこですでに津田は、天孫民族渡来説を批判している。そして翌号に津田が寄せたのが、天皇を擁護する「建国の事情と万世一系の思想」であった。



これは、原稿をみて驚いた編集部が長文の手紙で津田に再考を要請し、津田が論旨を変更しなかったため、その手紙も同時掲載されるという異例の処置のもとに世に出された。編集部は帝国から弾圧を受けた歴史学者から、そのような原稿が渡されるとは予想していなかったのである。この論文はまず、敗戦以来、記紀神話を史実として強制した皇国史観からの脱却が世の中で要求されているとして、彼なりの日本古代史の「私案」を提供するとして始められる。そしてその「私案」こそ、単一民族史観と象徴天皇制にほかならなかった。



そこで展開されているのは、戦前の彼の主張の延長であり、特に目新しいものはない。すなわち、「日本の国家は日本民族と称し得られる一つの民族によって形づくられた。この日本民族は近いところにその親縁のある民族を持たぬ」し、「遠い昔から一つの民族として生活して来たので、多くの民族の混和によって日本民族が形づくられてきたのではない」。



この単一民族は平和的な農業民で、弧絶した島国に住み異民族との接触経験もなく、同一民族の自然な情のもとで平和的にヤマト朝廷に統合されていった。そして、同一民族の徐愛、異民族との戦争の不在、天皇が直接に統治しない不親政、武力でなく文化的・宗教的権威としての君臨などを特徴として、自然のうちに万世一系、すなわちこの世のつづくかぎり国民と天皇は一体であるとする観念が生じた、というのである。


以上抜粋




李信恵 - マンガ 嫌韓流の8割、9割はデマ。日本は日本人だけの国・・・

japan4060さんがアップロード


桜チャンネルというのは、持丸博の奥さんが創設したそうです。旦那のかわりに名義を貸したのかもしれませんが、ポチチャンネルにふさわしい人選だと思います。話の中に出てくる電通ともツーカーの仲でしょう。何かに注目させる(大衆の注意を逸らしておく、プロパガンダを浸透させる等)ために両陣営にポチを配置して反目させるというのは常套手段です。


それにしても在日の女性一人に日本人の男が束になってかかっています。味方が大勢いるせいなのか嫌韓流の作者はほとんど意見を述べません。てか自分の作品のメッセージ性を問われてもまともな返事すらできない。しかしコメント欄は李さんを糞女呼ばわりするレスであふれています。歴史認識の違いを云々する以前の問題です。
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