Home > 従軍慰安婦問題 > 従軍慰安婦問題7  操作される 『歴史認識』

従軍慰安婦問題7  操作される 『歴史認識』

従軍慰安婦問題が紛糾する原因の一つとして、歴史認識の齟齬が故意に利用されている点を挙げることができると思います。


例えば台湾領有・韓国併合は、従軍慰安婦問題と切っても切れない関係にあると思うのですが、ではネトウヨの動画の内容はというと、韓国はもちろんのこと、親日感情がクローズアップされている台湾にしても、植民地化される経緯については不問に付されています。


また我々日本人一般の傾向として、日清戦争についてはほぼスルー、日露戦争の勝利にのみスポットライトが当てられているのが現状だと思います。台湾割譲を受ける契機となった日清戦争について、それが日中戦争と同じパターンで始められたということを認識している日本人は少ないでしょう。


それはあたかも第二次世界大戦において、日米戦争の発端となった真珠湾攻撃ばかりスポットライトを浴びて、昨今、ルーズベルト米大統領が確信犯だったというのは常識になりつつあるのに、日英戦争の騙し討ちについては等閑に付されているが如くです。


我々の歴史認識はその都度操作されたものでしかない、あたかも真実がリークされていると感じるように操作されている、そしてそれが極端に先鋭化したのがネトウヨなのだと考えたことはありませんか?


そのこと問い直す意味もあって、今回からしばらくは台湾領有の経緯を見て行きたいと思います。すなわち後藤新平が英雄視され、台湾の親日感情がクローズアップされているのは、情報操作の一端であるという検証をしていきたいと思います。




金重明『物語 朝鮮王朝の滅亡』岩波新書より以下抜粋




第三章 日清戦争は朝鮮戦争として始まった‐戦場は朝鮮だった



朝鮮半島南部の全羅道は豊かな穀倉地帯であったが、一八九二年以来凶作が続き、飢餓は深刻な様相を呈していた。ところが九二年五月に古阜郡主に赴任したチョビョンガブは、ありとあらゆる手段を使って農民から税を搾り取り、怨声は地に満ちた。官吏の苛斂誅求はどこにでも見られたことであるが、チョビョンガブの虐政は常軌を逸したものだった。




(引用者によるダイジェスト)
これに対し抗議の声を上げた農民が、拷問されて殺害される。その結果農民軍が蜂起、官軍との間に熾烈な戦いの火蓋が切って落とされる。


農民軍は意気軒昂なため、官軍の力では鎮圧が難しくなっていく。やがて朝鮮国は清王朝に援兵を要請、李鴻章は二千八百の兵を派遣する。



大日本帝国はこの動きにすばやく便乗、朝鮮への出兵を決定して大本営を設置する。居留民保護を名目に、八千の兵からなる混成旅団を清国に事前の通知なく仁川に上陸させ、朝鮮国の抗議を無視して漢城に布陣する。


大軍団の日本兵に脅威を覚えた朝鮮国は、農民軍と和解して全州和約が成立する。全州城を出た農民軍は全羅道一帯に広がり、パリコミューンに遅れること23年、朝鮮の歴史市場はじめて農民による自治を実現する。



朝鮮国は清国と大日本帝国に対して撤兵を要求する。大日本帝国は撤兵を拒否し、清国に共同で朝鮮国の内政を改革しようと提案する。もともと清国は、朝鮮を属国として見なしていたのでこの提案を却下する。伊藤内閣の外相陸奥宗光は独自に朝鮮を改革する旨を清国に回答、第一次絶交書を通達する。




(抜粋続き)
朝鮮の内政改革といっても、清を戦争に引きずりこむための術策に過ぎない。陸奥自身が次のように記している。「余は初めより朝鮮内政の改革その事に対しては格別重きを措かず、また朝鮮の如き国柄が果たして善く満足なる改革をなし遂ぐべきや否やを疑えり。」



このまま一気に戦争に突き進もうとしていた陸奥の前に強敵があらわれる。李鴻章の依頼を受けて、ロシアが仲裁に乗り出してきたのである。ロシアは朝鮮の希望を入れて、日本はすみやかに撤兵するよう強硬に要請してきた。


イギリスは日本の希望にそって、清に、日本と共同で朝鮮の内政改革のための委員会を設置してはどうかと提案する。清としては最初から受け入れることのできない条件であり、当然のことながら清は拒否する。これを見て陸奥は清に第二次絶交書を送付・・・



漢城の日本軍は、周到な準備の末、七月二十三日深夜、朝鮮の王宮、景福宮を取り囲み、一隊を王宮内に突入させた。当時王宮侍衛隊は精兵とされていた平壌の兵五百から編成されていた。王宮侍衛隊は四倍以上の日本軍に対し果敢に抵抗した。そしてついに、王から侍衛隊に、それ以上の抵抗はやめるようにとの命令が下るのである。



日本軍はただちに、王宮と漢城内の朝鮮軍の武装解除にのりだす。分捕った武器は、大砲三十門、機関砲八門、小銃三千挺、雑式器無数であった。さらに王宮に入った大鳥圭介は、兵を動員して王宮に所蔵されていた貴重な文化財をことごとく略奪し、仁川港から運び出してしまった。国王を擒にした日本軍は、閔氏税権を打倒して、開化派を中心とした親日派政権を打ち立てるのである。



この日本軍の王宮攻撃について、公刊戦史等には、朝鮮政府とのなりゆきにしたがって日本軍が王宮に沿って行軍していたところ、王宮内から突然発砲があり、日本軍は余儀なく応射した、銃撃戦は十五分ほどで終了し、日本軍は王宮内に入って王を保護した、と記してある。



ところがこの王宮攻撃からちょうど百年後の一九九四年、歴史家の中塚明が福島県立図書館の「佐藤文庫」の中に、参謀本部による『日清戦史』の草案を発見する。そこには日本軍の朝鮮王宮攻撃の計画から実際の事件の流れまでが詳細に記されていた。これによって日本政府の説明の嘘が天下に明らかになったのである。




日本軍は高宗に「清軍を朝鮮から駆逐すべし」という文書を書くよう強要する。王宮攻撃の第一の目的はこの文書の入手であった。この文書によってはじめて、日本は清に戦争を仕掛けるにたる、そして欧米列強を納得させうる大義名分を得るのである。



日清戦争は、日本軍と新軍が戦火を交える前に、日本と朝鮮の戦争‐日朝戦争‐としてはじまったのである。





(引用者によるダイジェスト及び注解)
佐世保港を続々と出港した大日本帝国海軍の総トン数は一万一千トン、対する清国は三千三百トン、備砲は大日本帝国が三十門、清国が六門、さらに日本の巡洋艦は従来の八倍の速度の速射砲を搭載、戦力の差は圧倒的である。



大日本帝国はこの装備をどこから仕入れているかというと、イギリスから購入しているのである。そのために大日本帝国は金本位制を採用している、いや金本位制を採用した目的は、イギリスに儲けさせてあげるためだと言い換えてもいい。そのアガリを掠めるのが世界支配層の目的である。



一方マッチポンプ野郎イギリスは、清国に商船を貸してあげて、清兵を輸送するのに使わせてあげている。ゆえに浪速艦長東郷平八郎はイギリス商船を砲撃させた際、イギリス人船長らのみを救助させる。イギリスの国際法学者ホランドが『タイムズ』誌に、イギリス商船の撃沈は国際法上合法であるという主張を載せた結果、非難轟轟だったイギリスの世論も沈静化する。



宣戦の詔勅が降りるのはこうした緒戦の後であるが、同じような世論操作がもっと露骨かつ極端に行われたのが、日露戦争時のバルチック艦隊に対するイギリスの妨害工作とロパガンダ作戦である。








(抜粋続き)
正確な数は分からないが、犠牲者は数万とも数十万とも言われている(定説は三万~五万だが、異論もある)。日清戦争による死者が一番多かったのは、清でも日本でもなく、朝鮮だったのだ。



日本の教科書などではほとんど無視されているが、後述する旅順虐殺事件、台湾占領にともなう大虐殺とともに、近代の日本軍が歴史上最初に行った残虐事件として永く記憶にとどめておく必要があろう。




旅順に入城した日本軍が非戦闘員、婦女子、さらには幼児までをも虐殺し、それを欧米の特派員が目撃したのである。事件は全世界に報道され、日本はその責任を問われることになる。しかし伊藤首相は、日本軍の士気をくじくことになるという理由で、残虐行為の責任者の責任を不問とする決定を下す。



四月十七日、下関条約が締結される。条約は第一条で、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることをうたった。そして遼東半島・台湾の割譲、庫平銀で二億テールの賠償金の支払いという清にとっては実に苛酷な内容が記されていた。




日清戦争は東アジアにおける欧米列強のバランスを崩してしまった。これをきっかけとして、欧米列強は、巨牛の死体に群がるハイエナのように、露骨に清を蚕食しはじめる。清もまた、日本に対する巨額の賠償金を支払うため、欧米列強から借款せざるをえなくなり、その代価としてさまざまな利権を奪われてしまうのである。



血を流したのは日本であったが、欧米列強は座したまま、漁夫の利を得たのだ。日清戦争は、清にとっても、朝鮮にとっても、経済的に従属的な地位に転落する決定的な契機となったのである。





台湾征服戦争



下関条約によって台湾の割譲が論議されていることが伝わると、台湾では割譲反対運動がおこった。そして五月二十三日、全台湾島民の名において「台湾民主独立宣言」が発される。



日本はただちに軍を台湾に差し向ける。日本軍が台北に接近すると、台湾民主国の要人はみな逃亡してしまった。六月七日、台湾が陥落し、台湾民主国は事実上崩壊する。




しかし台湾民衆の抗日闘争が本格化するのはこれからだった。日本軍は民衆のゲリラ戦術に手を焼き、良民と「土匪」の区別がつかない、という理由で、村を焼き払い、民衆を無差別に殺戮していった。



台湾総督の樺山資紀(すけのり)が台湾平定宣言をするのは十一月十八日であった。五万の軍勢を動員し、四か月の時日を要したのである。さらに日本軍の死傷者は、朝鮮から遼東半島にいたる、いわゆる日清戦争の全期間を通じてのそれよりも多かった。




また台湾平定宣言後も、抗日武装闘争は終わらなかった。台湾の民衆の基本的人権を認めず、とりわけ「土民」への差別意識が露骨な日本の支配によって、反日感情は強まる一方だった。



旅順虐殺事件のときのように、欧米のジャーナリストの目があるわけでなかった。密室の中で、「土民」への残虐行為は日常化していったのである。





下関条約が締結される三か月ほど前の一月十四日、日本政府は、魚釣島、久場島、大正島、北小島、南小島の五つの島と三つの岩礁からなる尖閣諸島の沖縄県への編入を閣議決定する。



現在(二〇一三年)、日本と中国、台湾の間で、この尖閣諸島の領有問題をめぐって緊張が高まっている。この問題は、日本と韓国との間の懸案事項である竹島‐独島‐問題と相通じるものがある。どちらも、それがこじれている原因は、国際法上の領有権がどうのこのという以前に、歴史認識の問題があるからである。





以上抜粋。




同じことは従軍慰安婦問題についても言えると思います。下記の動画は従軍慰安婦問題で参照にしたものですが、45秒、朝鮮半島を旅した英人女性イザベラ・バードの著書からの引用と称して、「ソウルは世界有数の汚く悪臭がする都市と記しています。」と訳しています。しかし英文にはただ「the dirty and the bad smell city」とあるだけです。


イザベラ・バードは閔妃と面談しています。その際の閔妃の印象を、40歳をすぎてもなお美しく政治的影響力を持つ聡明な女性、と書いて称賛しています。閔妃は大日本帝国に対する朝鮮国の抵抗の要だったために、王宮内の住居で虐殺されています。しかし、この動画はそのことに一切触れていません。「証拠資料に基づく」と題して紛糾させたがっているようですが,英文で恥を拡散している結果に陥っていると思います。




証拠資料に基づく従軍慰安婦の正体
http://www.youtube.com/watch?v=idmDRwL7YRw

waa5001さんがアップロード





今回、侵略戦争のアーキタイプとして日清戦争を検証しましたが、私見では、パリコミューンにも農民軍の蜂起にも世界支配層が関与しています。つまり大日本帝国による大陸侵略のシナリオを描いたのは、イギリスではない。イギリスもまた道具なのです。下記の動画はチェリ・メッサンが、その定理をアメリカに時空間を置き換えて、端的に説明したものです。


但し、チェリメッサンが例に挙げたシオニズムについては、異論があります。私見では、シオニズムという戦略はステルス兵器の最たるものです。イスラエルと同じで、世界支配層御用達ですが本体そのものではありません。



米金融寡頭権力 帝国の強さと脆さ チエリ・メッサン
http://www.youtube.com/watch?v=6HhnnHzx3hc

mamoru yotwoさんがアップロード



一時期、副島隆彦が「20世紀は英国から米国へ覇権が移った世紀」、「デーヴィッド・ロックフェラー、この男が死ぬまで世界皇帝」とさかんに吹いていましたが、最近はロスチャイルドのプロパガンダ本を書いて(恐らく代作でしょう)、「ロックフェラーとロスチャイルドの争いがあった」というスタンスにスライドさせようとしているようです。


中田安彦も、鬼塚英昭のプロパガンダ本を推奨する際に、「鬼塚はロスチャイルド一辺倒だが、それは違う。ロスチャイルドとロックフェラーの争奪戦は、確かにあったのだ」と力こぶを入れてプッシュしています。こういった小手先のヴァリエーションを用いて、いくらでも騙せると踏んでいるんでしょう。学問道場の会員は思考停止していますから。ボロい商売ですわ。
コメント

コメントを受けつけておりません。

ブログ内検索

RSS・ブックマーク

最新記事

(09/18)
(09/02)
(08/06)
(07/07)
(07/07)
(06/01)
(05/11)
(05/03)
(04/02)
(03/01)

最新コメント

[02/27 ペリマリ]
[02/27 ペリマリ]
[02/26 ペリマリ]
[02/26 ペリマリ]
[02/16 ペリマリ]
[01/20 ペリマリ]
[01/17 クールCyrusII]
[11/20 ペリマリ]
[11/13 ペリマリ]
[11/13 ペリマリ]
[11/12 jdwsr736]
[09/05 ペリマリ]
[03/16 ペリマリ]
[03/15 NONAME]